北郷三久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北郷三久
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 天正元年3月10日1573年4月11日
死没 元和6年4月19日1620年5月21日
別名 堯千代(幼名)、鶴丸、宗次郎、作左衛門
戒名 義山忠孝庵主
墓所 薩摩川内市の梁月寺
官位 佐渡守加賀守
氏族 北郷氏
父母 父:北郷時久、母:北郷忠孝の娘
兄弟 相久忠虎三久久村忠頼
正室:伊集院忠棟の娘
継室:上井覚兼の娘
継室:花屋夫人島津歳久の娘)
久加
テンプレートを表示

北郷 三久(ほんごう みつひさ)は、日向国及び薩摩国の戦国武将。平佐(現在の鹿児島県薩摩川内市平佐町)領主。北郷氏宗家 10代の北郷時久の三男であり、11代の北郷忠虎の弟であったが、別家を興し、平佐北郷氏の初代となる。また、母である北郷忠孝の娘は、島津義弘の先妻であり、義弘の娘御屋地を出産した後、時久の後妻となったので、三久と御屋地は異父姉弟となる。

経歴[編集]

天正元年(1573年)日向国都城生まれ。島津氏の有力支族である北郷氏の一員として島津氏の下で、小田原征伐文禄・慶長の役に従軍した。文禄3年(1594年)、忠虎の命により三股(宮崎県三股町)を領する。同年10月、忠虎が朝鮮巨済島において病死したが、前当主である時久は高齢であり、次期当主長千代丸は幼少であったため、島津氏は、島津義久と島津義弘の連署により、長千代丸が17歳になるまで、三久が北郷氏の家督代を務めるよう命じた。

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の命により、島津氏家中の所領替えが行われ、北郷氏宗家は都城から祁答院へ、三久も三俣から平佐へと移転させられ、都城は伊集院忠棟の領地となった。北郷氏にとって都城地方は、足利尊氏から与えられて以来継続して領してきた地であり、以後、都城復帰が北郷氏の悲願となった。

慶長元年(1596年)、三久は、島津義弘に従い朝鮮へ渡海し各地を転戦した。特に、泗川の戦いでは、三久勢は敵の首を4,146討ち取ったと伝えられている。

朝鮮から帰国後、島津氏と伊集院氏の戦いである庄内の乱が勃発した。これは、北郷氏都城復帰の好機であり、三久は、島津忠恒に従い、長千代丸を補佐し一族を挙げて伊集院忠真と戦った。北郷氏の活躍に対し忠恒は感状を送っている。徳川家康の仲介により乱が終結した後、伊集院氏は頴娃へ移され、北郷氏は念願の都城復帰を果たした。なお、三久は庄内の乱終結後も都城へ戻ることなく平佐を領し、元和6年(1620年)に48歳で死去した。墓は薩摩川内市の梁月寺跡に現存している。

後に、都城の北郷氏宗家は島津氏の命により島津姓に復したが、平佐北郷氏は北郷の家名を保ち、島津氏の重臣として存続した。

税所敦朝の殉教[編集]

三久の家臣であった税所敦朝は、キリスト教禁止後に洗礼を受けたので、三久は棄教を命じたが、敦朝はこれに従わず処刑され、薩摩国初の殉教者となった。

参考文献[編集]

  • 『都城市史』
  • 本藩人物誌 鹿児島県史料集第13集』(1973年 鹿児島県立図書館)