内山惣十郎
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うちやま そうじゅうろう 内山 惣十郎 | |
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本名 | 竹内 壮治 |
生年月日 | 1897年12月19日 |
没年月日 | 1973年2月6日(75歳没) |
出生地 | 日本 東京府(現在の東京都) |
職業 | 演出家、劇作家、脚本家、俳優 |
ジャンル | オペラ、サイレント映画、軽演劇、放送劇、テレビ映画 |
活動期間 | 1920年 - 1973年 |
活動内容 |
根岸大歌劇団 文芸部 帝国キネマ芦屋撮影所 日本劇場 演出部長 |
主な作品 | |
著作 『浅草オペラの生活』 映画 『結婚哲学』 『ゴー・ストップ』 テレビ映画 『新吾十番勝負』 作詞 榎本健一『カフェー・ナンセンス』 |
内山 惣十郎(うちやま そうじゅうろう、1897年12月19日 - 1973年2月6日[1])は、日本の演出家、劇作家、脚本家、作詞家、俳優である。浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、その草創期から関わった[1]。榎本健一『カフェー・ナンセンス』の作詞家としても知られる。
人物・来歴
[編集]1897年(明治30年)12月19日、東京府(現在の東京都)に竹内壮治として生まれる[1]。
1920年(大正9年)9月3日、22歳のころ、根岸興行部の三代目・根岸吉之助が組織した「根岸大歌劇団」に立ち上げから参加する[2]。同歌劇団が根城にした浅草公園六区・金龍館で、俳優のほか、舞台装置、演出を手がけた[1]。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災によって首都は壊滅、浅草六区の興行街も甚大な被害を受け、浅草オペラも終焉に向かった。映画界、演劇界の人材が関西に新天地を求めるなかで、内山も帝国キネマ芦屋撮影所に移り、翌1924年(大正13年)6月26日に公開された若山治監督のサイレント映画『恋慕地獄』で、映画脚本家デビューした[3]。
後に東京に戻り、浅草六区・電気館のレヴュー台本を書いた[1]。1931年(昭和6年)8月発売の榎本健一のレコード『カフェー・ナンセンス』の作詞をする。1934年(昭和9年)、日本劇場の演出部長に就任した[1]。
1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の終結後は放送台本を執筆した[1]。1958年(昭和33年)には、日本テレビ製作の『新吾十番勝負』の脚本で、テレビ映画に進出した。
1973年(昭和48年)2月6日、死去した[1]。満75歳没。
フィルモグラフィ
[編集]サイレント映画
[編集]- 『恋慕地獄』、監督若山治、帝国キネマ芦屋撮影所、1924年6月26日 - 脚本
- 『恋の勇者』、監督松本英一、帝国キネマ芦屋撮影所、1924年10月10日 - 原作
- 『或る兄弟』、監督大久保忠素、松竹下加茂撮影所、1925年4月9日 - 脚本
- 『結婚哲学』、監督深川ひさし、帝国キネマ芦屋撮影所、1927年2月27日 - 原作
- 『ゴー・ストップ』、監督石原英吉、東亜キネマ京都撮影所、1931年7月7日 - 原作
テレビ映画
[編集]- 『新吾十番勝負』、原作川口松太郎、日本テレビ、1958年12月2日 - 1960年3月29日 - 脚本
- 『水戸黄門漫遊記』、脚本西川清之、日本テレビ、1960年4月7日 - 同年12月29日 - 原作
- 『人生の四季』第21回・第22回、『真珠』前編・後編、日本テレビ、1961年10月19日・26日 - 脚本
ビブリオグラフィ
[編集]- 『浅草オペラの生活』、雄山閣出版、1967年
- 『明治はいから物語』、人物往来社、1968年
- 生活史叢書22『落語家の生活』、雄山閣出版、1971年
- 生活史叢書29『浪曲家の生活』、雄山閣出版、1974年