久慈城

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久慈城
岩手県
別名 新町館・八日館
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 久慈信実?
築城年 文明年間(1469年-1487年)?
主な城主 久慈氏
廃城年 天正20年(1592年
遺構 曲輪・堀
指定文化財 岩手県指定史跡
位置 北緯40度11分33.0秒 東経141度42分36.0秒 / 北緯40.192500度 東経141.710000度 / 40.192500; 141.710000座標: 北緯40度11分33.0秒 東経141度42分36.0秒 / 北緯40.192500度 東経141.710000度 / 40.192500; 141.710000
地図
久慈城の位置(岩手県内)
久慈城
久慈城
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久慈城(くじじょう)は、岩手県久慈市にあった日本の城。別称、新町館・八日館。岩手県指定史跡[1]

概要[編集]

久慈城は戦国時代平山城で、九戸郡大川目村(現・久慈市大川目町字新町)に所在した。城跡は久慈川の左岸、新町集落の北方、大川目慈光院の東側の男山を利用して独立丘陵上に位置し[2]、北側後背地に空濠がめぐらされ、南側は主郭部で南北に長い平場をなして、丘陵頂部より平坦地が3段に作り出されていた。ふもとに位置する堀屋敷と称される平場が日常の居城と思われる。現在は、本丸跡・堀が残っている。

城跡は、1973年(昭和48年)10月8日に久慈市指定史跡に指定されたのち、2022年(令和4年)4月8日に岩手県指定史跡に指定されている。

歴史[編集]

久慈氏の居城で、久慈修理助治政の養子、12代と伝えられる備前守信実の頃からが大川目八日館に居住した[3]のが始まりと伝わるが、築城時期は不明だが、信実が当地に入ったのは文明年間(1469 - 87年)のころである。と、いわれている。(「摂待久慈家譜」)

天正19年(1591年)9月、久慈氏宗家である、久慈備前守直治は九戸信仲の三男中務政則を娘婿とした[3]ため、九戸政実の乱において九戸政実に荷担し、九戸城に籠城したが降伏し開城に伴い、主だった首謀者達とともに栗原郡三迫岩ヶ崎(現 宮城県栗原市)に送られ処刑され、久慈氏の嫡流が滅亡した。

没後、久慈城は南部信直の直轄下におかれることとなり、代官は久慈修理治興であった。

天正20年(1592年)、「諸城破却書上」には「糠部郡之内 久慈 山城 破 信直抱 代官 久慈修理」とあり、破却された。

脚注[編集]

  1. ^ 令和4年4月8日岩手県報より岩手県教育委員会告示第4号。
  2. ^ (地図閲覧サービス) 国土地理院
  3. ^ a b 1989年(平成元年)3月31日・久慈市教育委員会案内板

参考文献[編集]

  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X 
  • 「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会『角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」』角川書店、1998年5月18日。ISBN 4-04-002030-8 

関連項目[編集]