万里小路惟房
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正10年(1513年) |
死没 | 元亀4年6月9日(1573年7月7日) |
別名 | 号:崇恩院 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 後奈良天皇→正親町天皇 |
氏族 | 万里小路家 |
父母 | 父:万里小路秀房 |
兄弟 | 貞子、惟房、胤秀、房子 |
妻 | 正室:畠山家俊[1]の娘 |
子 | 輔房、伏見宮貞康親王御息所、今出川晴季室ら |
万里小路 惟房(までのこうじ これふさ)は、戦国時代の公卿・歌人。内大臣・万里小路秀房の子。官位は正二位・内大臣。号は崇恩院。万里小路家11代当主。
経歴
[編集]永正10年(1513年)、万里小路秀房の子として誕生。正親町天皇の従兄弟にあたる。
天文8年(1539年)12月25日に参議となる。従兄弟である正親町天皇の勅使として、織田信長と接渉し、難しい時代の朝廷運営を支えた。元亀4年(1573年)に薨去するが、それに先立って内大臣に任ぜられた。
三条西実枝と並び、この時代を代表する教養人として名が知られていた。諸芸に秀でていたが特に書道と歌道に優れ、格調高く迫力迫る和歌懐紙等が大名家に伝来している。室町時代の公家の気骨を知る上で、きわめて重要な書物である。また千利休が活躍した安土桃山時代の公卿でもあり、惟房の和歌懐紙の掛け幅は、現在の茶道において極めて珍重されている。