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ワシーリー・スリコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ワシーリー・スリコフ
Vasily Surikov
自画像(1879年)
生誕 1848年1月24日
クラスノヤルスク
死没 1916年3月19日
モスクワ
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ヴァシーリー・イヴァノヴィチ・スリコフВаси́лий Ива́нович Су́риков, 1848年1月24日1916年3月19日)はロシア帝国末期の画家。大作の歴史画を得意とし、当時としては最も進歩的な美術家の一人であった。ロシアでは最も有名な画家の一人である。シベリアクラスノヤルスク出身[1]。「スリコフ」は「スーリコフ」とも表記される[2]

略歴

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1869年から1871年にかけて帝国美術アカデミーにてパヴェル・チスチャコフに師事。1877年モスクワに定住し、救世主ハリストス大聖堂にいくつかのフレスコ画を寄贈する。1878年に、デカブリストの末裔エリザベート・シャレー(Elizabeth Charais)と結婚。1881年巡廻美術展協会に参加。1893年よりペテルブルク美術アカデミーの正会員となる。

スリコフは、庶民日常生活に力点を置きつつロシアの過去のイメージを描いた。作品で顕著なのは、特異な空間表現(非線形透視図法)と、群集の動きである。いくつかの事例においてスリコフは、同一の図像を大小さまざまな大きさで描いていたようである。

モスクワにて死去。同地のヴァガニコヴォ墓地に埋葬された。出身地クラスノヤルスクには、後に曾孫であるニキータ・ミハルコフアンドレイ・コンチャロフスキーによって記念碑が建てられた。

作品

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脚注

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  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2020年5月4日閲覧。
  2. ^ a b 上野理恵   (2008年). “移動展派の創作における個の問題 : クラムスコイとレーピンの作品を中心に  ”. 慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会  . 2020年5月4日閲覧。
  3. ^ “ロシア絵画に描かれたマースレニツァのパンケーキ週間”. ロシア・ビヨンド. (2020年2月24日). https://jp.rbth.com/arts/83295-roshia-gaka-egakareta-maslenitsa 2020年5月3日閲覧。 
  4. ^ “ロシアの凄惨な戦争画15選”. ロシア・ビヨンド. (2019年8月23日). https://jp.rbth.com/arts/82466-roshia-no-sensouga 2020年5月3日閲覧。