ロレンツォ2世・デ・メディチ
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ロレンツォ2世・デ・メディチ Lorenzo di Pietro de' Medici | |
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ウルビーノ公 | |
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在位 | 1516年 - 1519年 |
出生 |
1492年9月12日 フィレンツェ共和国、フィレンツェ |
死去 |
1519年5月4日(26歳没) フィレンツェ共和国、カレッジ |
配偶者 | マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ |
子女 | カテリーナ |
家名 | メディチ家 |
父親 | ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ |
母親 | アルフォンシーナ・オルシーニ |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(Lorenzo di Piero de 'Medici, 1492年9月12日 - 1519年5月4日[1])は、イタリアのフィレンツェの僭主(1516年から1519年までその権力を保った)、ウルビーノ公。ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』はロレンツォに献上された。
生涯
[編集]ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチとアルフォンシーナ・オルシーニの子として、フィレンツェで生まれた。父方の祖父母は、ロレンツォ・デ・メディチとクラリーチェ・オルシーニである。
1516年、叔父である教皇レオ10世によりウルビーノ公に叙任された。それまでウルビーノ公であったフランチェスコ・マリーア1世から公位を短期間だが奪取し、ロレンツォは1万人の兵を要する司令官となった。ウルビーノ戦争と呼ばれたこの戦いで、いったん負傷してトスカーナへ退却するが、同年9月のうちにウルビーノ公領を再獲得した。
1518年6月、オーヴェルニュ伯女マドレーヌと結婚。翌年4月に長女カテリーナが生まれるが、その21日後にロレンツォは梅毒で急死した。これによりウルビーノ公にはフランチェスコ・マリーア1世が返り咲いた。のちにカテリーナは遠縁にあたるローマ教皇クレメンス7世の政略により、フランス王アンリ2世妃となった(フランス語名はカトリーヌ・ド・メディシス)。
脚注
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