ヨハン1世 (ザクセン=ラウエンブルク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨハン1世
Johann I.
ザクセン公
在位 1260年 - 1282年

出生 1249年
死去 1285年7月30日
ザクセン公領、ヴィッテンベルク
配偶者 インゲボルグ・ビルイェルドッテル
子女 ヘレーネ
エリーザベト
ヨハン2世
アルブレヒト3世
エーリヒ1世
家名 アスカニア家
父親 ザクセン公アルブレヒト1世
母親 ヘレーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
宗教 キリスト教カトリック
テンプレートを表示

ヨハン1世(Johann I., 1249年 - 1285年7月30日)は、アスカニア家出身のザクセン公(在位:1260年 - 1282年)。アルブレヒト2世の兄。

生涯[編集]

ヨハン1世はザクセン公アルブレヒト1世とヘレーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの間の息子である。父アルブレヒトが1260年に死去した際にはヨハン1世は11歳位であり、恐らく母ヘレーネがヨハン1世とその弟アルブレヒト2世が成人するまで後見人となったと思われる。1263年にはまだ母ヘレーネが息子らの同意のもと文書を発行していたが、1268年には独立して証書を発行している。ヨハン1世とアルブレヒト2世はともにリューベックフォークトとなった。

ヨハン1世とアルブレヒト2世は、後に領地を分割するまで共同統治していたとみられるが、その分割がいつ行われたのかは明らかでない。1272年には2人はまだ共通のシールを用いていた。領地の分割の際、ヨハンは元々のザクセン公領を受け取った。この領域で最も重要な場所は祖父ベルンハルト3世がラウエンブルク城を建設したエルベ川沿いの地域であった。1296年にヨハン1世の息子たちが領地を分割相続した際、公領の名称をザクセン=ラウエンブルクとした。これにより、ヨハン1世はアスカニア家のザクセン=ラウエンブルク公系の家祖となった。

1282年、ヨハン1世は領地を3人の息子らに譲り、息子らは叔父アルブレヒト2世とザクセン公領を共同統治する形となった。

ヨハン1世はヴィッテンベルクに隠棲し、その地のフランシスコ会修道院に入り修道院長となった。ヨハン1世は1285年7月30日に死去した。

子女[編集]

ヨハン1世はビルイェル・ヤールの娘インゲボルグ(1254年 - 1302年)と結婚し、以下の子女を含む4人の娘と4人の息子をもうけた。

  • ヘレーネ(1272年頃 - 1337年) - 最初にシュヴァルツブルク=ブランケンブルク伯ギュンター9世と結婚、1297年にホルシュタイン=ピンネベルク伯アドルフ6世と結婚。
  • エリーザベト(1274年頃 - 1306年以前) - 1287年にシュレースヴィヒ公ヴァルデマー4世(エストリズセン家)と結婚
  • ヨハン2世(1275年頃 - 1322年) - ザクセン=ラウエンブルク公
  • アルブレヒト3世(1281年頃 - 1308年) - ザクセン=ラウエンブルク公
  • エーリヒ1世(1285年以前 - 1360年) - ザクセン=ラウエンブルク公

参考文献[編集]

先代
アルブレヒト1世
ザクセン公
1260年 - 1282年
アルブレヒト2世と共同統治)
次代
ヨハン2世
アルブレヒト3世
エーリヒ1世