マニウス・ウァレリウス・マクシムス

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マニウス・ウァレリウス・マクシムス
M'. Valerius Volesi f. - n. Maximus[1]
出生 不明
死没 紀元前463年
出身階級 パトリキ
氏族 ウァレリウス氏族
官職 独裁官紀元前494年
プリンケプス・セナトゥス紀元前493年
アウグル(?-紀元前463年
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マニウス・ウァレリウス・マクシムスラテン語: Manius Valerius Maximus、生年不詳 - 紀元前463年[2])は、共和政ローマ独裁官で、第一次プレブスの離反が(en)発生した紀元前494年に就任した。兄弟にプブリウス・ウァレリウス・プブリコラマルクス・ウァレリウス・ウォルススがいる。父はウァレリウス・ウォルススと言われる[3][4]

独裁官就任[編集]

紀元前509年の共和政樹立以来、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の対立が続いていたが、紀元前494年にはプレブス達がローマ市内を離れモンテ・サクロに立て篭もる事態となった。これを見たウォルスキサビニおよびアエクイはローマに対して武器をとった。この危機と政治的な問題に対処するため、ローマ元老院はウァレリウスを独裁官に選出した。彼が選ばれた理由はその中庸な性格であったと言われる。既に死去してはいたが、彼の兄弟であるプブリウス・ウァレリウス・プブリコラ(紀元前503年没)の人気もあったため、ウァレリウスの独裁官就任は市民に歓迎された[3]

軍事行動[編集]

ウァレリウスは直ちに徴兵を行ったが、市民は積極的に協力した。合計で10個軍団(45,000人)が編成されたが、これはローマが一度に有した最大の兵力であった。うち4個軍団がウァレリウスに与えられ、最大の脅威であるサビニに対応することとなった。執政官(当時は執政官と独裁官が並立で置かれた)アウルス・ウェルギニウス・トリコストゥス・カエリオモンタヌスティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスがそれぞれ3個軍団を率い、ウォルスキとアエクイにあたることとされた[3]

ウァレリウスはサビニに侵攻し、これに勝利した。この勝利を讃えて凱旋式が実施された。加えて、ウァレリウスとその子孫に対し戦車競技場に最高貴賓席(en)が与えられた[5]

プレブスの離反[編集]

軍がローマに戻った後、ウァレリウスは元老院に対して、市民が苦しんでいる債務の問題を解決するように要求した。しかし元老院は行動せず、これにウァレリウスは怒った。彼は元老院議員に対してこう言った:

諸兄らは、私が融和を求めることを許さなかった。しかし、すぐに諸兄らはローマ市民が私のようなパトロヌス(庇護者)を求めるのを目にするであろう。私に関しては、これ以上市民を落胆させるつもりなく、また目的無しに独裁官を続けるつもりもない。内部の対立と外からの危機が、独裁官の権威を求めた。既に外国との平和は実現したが、内部の平和は阻害されている。私は独裁官ではなく一市民として、これからの騒動に対する目撃者となろう。
マニウス・ウァレリウス・マクシムス、ティトゥス・リウィウス、『ローマ建国史』、2.31

ウァレリウスは独裁官を辞職して自宅に戻ったが、市民はこれに拍手喝采した[5]

レガシー[編集]

紀元2年、マニウス・ウァレリウス・マクシムスの彫像がローマの他の「偉大な人物」と共にフォルム・アウグストゥムに建てられ、その下には彼の業績を示す碑文が置かれた。

出典[編集]

  1. ^ Broughton Vol.1, p. 14.
  2. ^ Broughton Vol.1, p. 35.
  3. ^ a b c ティトゥス・リウィウス、『ローマ建国史』、2.30
  4. ^ E. A. Judge (1 January 2008). The First Christians in the Roman World: Augustan and New Testament Essays. Mohr Siebeck. pp. 178–. ISBN 978-3-16-149310-2. https://books.google.com/books?id=j9-XT9N2mc4C&pg=PA178 
  5. ^ a b ティトゥス・リウィウス、『ローマ建国史』、2.31

参考資料[編集]

  • T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 

関連項目[編集]