プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

プブリウス・ウァレリウス・プブリコララテン語: Publius Valerius Publicola ポプリコラ(Poplicola)とも、? - 紀元前503年)は、共和政ローマ初期の半伝説的な政治家である。ルキウス・ユニウス・ブルトゥスらと共に王を追放し、史上初の補充執政官に就任した後も更に3度執政官を務めた。「プブリコラ」とは「民衆の友」を意味する。

共和政の樹立[編集]

ボッティチェッリによる『ルクレツィアの物語』

ウァレリウスの出自はサビニ人で、祖先はティトゥス・タティウスの在位の際にローマに移り住んだと言う。

ブルトゥスとは同輩ではなかったが、共に王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスの息子タルクィニウスに強姦された、ルクレティアが自殺した際の立会人の一人であり[1]、ブルトゥスと共に王族を追放して王政を終了させ、共和政ローマの樹立に並々ならぬ貢献を果たした。そして初代執政官ルキウス・タルクィニウス・コッラティヌスのローマ退去後、補充執政官に選出された[2]

共和政下の業績[編集]

紀元前509年、追放されたタルクィニウスはエトルリアの都市ウェイイ等の支援を受けローマを攻撃、ウァレリウスはブルトゥスと共にこれを迎撃した(シルウァ・アルシアの戦い)。ブルトゥスは戦死したもののローマは勝利し[3]、ウァレリウスは戦利品を持ち帰り凱旋式を挙行した[4]

ブルトゥスの死後、単独の執政官となったウァレリウスは、人々を見下ろす丘の頂上に家を建設し始めた。人々はこれを見て、彼は王位を狙っているのではと恐れた。それを知ったウァレリウスは自らの屋敷を解体し、友人の家に間借りするようにしたという[5]。そして、ローマ市民の自由と権利を守る法、すなわち「王となろうと試みる者はいかなる時においても殺されるべき」という法を制定する。

アンドレア・マンテーニャによる『ムキウス・スカエウォラ』

紀元前508年も続けて執政官となると、タルクィニウスの亡命先であるエトルリアの都市クルシウムの王、ラルス・ポルセンナの軍勢にローマを包囲された。ウァレリウスはローマ軍の陣頭指揮を執り、スカエウォラホラティウス・コクレス英語版の決死の働きもあってポルセンナを撃退し和平に持ち込むと、翌年も続けて執政官を務めた[6]

紀元前504年、四度目の執政官に選出されると、サビニ人とウェイイに勝利し二度目の凱旋式を挙行[4]クラウディウス氏族らをローマに移住させた[7]

死後の影響[編集]

彼は紀元前503年に没するが、葬儀は国費で出され、ローマの女性は10カ月の間喪に服した。

なお1787年から1788年にかけ、アメリカにおいて、いわゆる「建国の父」と呼ばれるアレクサンダー・ハミルトンジョン・ジェイジェームズ・マディソンが行った米国憲法草案を擁護する匿名投稿(「フェデラリスト・ペーパー(ザ・フェデラリスト)」)は、Publiusのペンネームで行われたが、これは、ローマ市民の自由と権利を守り、共和制樹立に大きな貢献をした、このプブリウス・ウァレリウス・プブリコラにちなんでのものである。

脚注[編集]

  1. ^ リウィウス, 『ローマ建国史』1.58
  2. ^ リウィウス, 『ローマ建国史』2.2
  3. ^ リウィウス, 『ローマ建国史』 2.6-7
  4. ^ a b Fasti Triumphales
  5. ^ プルタルコス, 『対比列伝』ポプリコラ
  6. ^ T. R. S. ブロートン, The Magistrates of the Roman Republic (American Philological Association, 1952, 1986), vol. 1, pp. 5-6.
  7. ^ T. R. S. ブロートン, The Magistrates of the Roman Republic (American Philological Association, 1952, 1986), vol. 1, pp. 8.

参考書籍[編集]

『ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず』(塩野七生)