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ボニファーチオ・ディ・カノッサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボニファーチオ・ディ・カノッサ
Bonifacio di Canossa
カノッサ伯
トスカーナ辺境伯
在位 カノッサ伯:1012年頃 - 1052年
トスカーナ辺境伯(4世):1027年 - 1052年

出生 985年
死去 1052年5月6日
マントヴァ近く、サン・マルティーノ・アッラルジーネ
埋葬 マントヴァ
配偶者 リキルダ・ディ・ベルガモ
  ベアトリクス・フォン・ロートリンゲン
子女 ベアトリーチェ
フェデリーコ
マティルデ
家名 カノッサ家
父親 テダルド・ディ・カノッサ
母親 ウィラ
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ボニファーチオ・ディ・カノッサBonifacio di Canossa, 985年 - 1052年5月6日)は、カノッサ伯(在位:1012年頃 - 1052年)、トスカーナ辺境伯(4世)(在位:1027年 - 1052年)。カノッサ家(Canossiana)出身で、神聖ローマ帝国期の有力な領主の一人であり、レッジョモデナマントヴァフェラーラを支配した。

生涯

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ボニファーチオは、ランゴバルド族の家系のアダルベルト・アットー(Adalberto Atto)またはアットーネ(Attone)の孫であり、アダルベルトの子テダルド・ディ・カノッサとその妻ウィラ(ボゾン家トスカーナ辺境伯の出身ともされる)との間の次男である。兄テダルトはアレッツォ司教となり、弟コッラードはロンバルディアの伯らとともにボニファーチオと対立したのち1030年死去した。

ボニファーチオは常に神聖ローマ皇帝を支持し、1014年、ロンバルディア領主による皇帝ハインリヒ2世への反乱を鎮圧した。1026年には、皇帝コンラート2世がイタリア王となるためアキテーヌギヨーム5世と争った際に、ボニファーチオはコンラートに加勢した。これにより翌1027年にボニファーチオはトスカーナ辺境伯位を与えられた。ボニファーチオはまた1034年6月のブルグント王国継承に関するコンラート2世とブロワウード2世との戦いにおいても皇帝側で参戦している。一方で、強大化したボニファーチオの勢力に対し、皇帝は圧力を加えた[1]

1056年5月6日、マントヴァ近くのサン・マルティーノ・アッラルジーネの狩りの途中で暗殺された。暗殺者はオパルマのスカルペッタ・デ・カネヴァリと言われており、暗殺の黒幕は皇帝ハインリヒ3世ともされている[2]。マントヴァに埋葬された。

子女

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最初、ベルガモ伯ジザルベルト2世の娘リキルダ (Richilda) と結婚し、娘を一人もうけたが夭逝した。リキルダは1036年に死去した。

アルデンヌ家上ロートリンゲンフリードリヒ2世の娘ベアトリーチェ・ディ・ロタリンジャ(Beatrice di Lotaringia)と再婚し、3人の子供を持った。

  • ベアトリーチェ(? - 1053年) - 夭逝
  • フェデリーコ(? - 1055年) - トスカーナ辺境伯(在位:1052年 - 1055年)、夭逝
  • マティルデ(1046年? - 1115年) - トスカーナ女伯(在位:1055年 - 1115年)

ベアトリーチェはボニファーチオの死後の1054年にロートリンゲン公ゴットフリート3世と結婚した。

脚注

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参考文献

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  • 山辺規子「カノッサ家の盛衰 : 中世中期・北イタリアの貴族家系の一例」『研究年報』第37巻、奈良女子大学文学部、1994年3月、83-100頁、CRID 1050282813367647616ISSN 0387-2769 
  • 瀬原義生『ドイツ中世前期の歴史像』文理閣、2012年。
先代
ラニエーリ・ディ・トスカーナ
トスカーナ辺境伯
1027年 - 1052年
次代
フェデリーコ・ディ・カノッサ