ボニファーチオ・ディ・カノッサ
ボニファーチオ・ディ・カノッサ Bonifacio di Canossa | |
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カノッサ伯 トスカーナ辺境伯 | |
在位 |
カノッサ伯:1012年頃 - 1052年 トスカーナ辺境伯(4世):1027年 - 1052年 |
出生 |
985年 |
死去 |
1052年5月6日 マントヴァ近く、サン・マルティーノ・アッラルジーネ |
埋葬 | マントヴァ |
配偶者 | リキルダ・ディ・ベルガモ |
ベアトリクス・フォン・ロートリンゲン | |
子女 |
ベアトリーチェ フェデリーコ マティルデ |
家名 | カノッサ家 |
父親 | テダルド・ディ・カノッサ |
母親 | ウィラ |
ボニファーチオ・ディ・カノッサ(Bonifacio di Canossa, 985年 - 1052年5月6日)は、カノッサ伯(在位:1012年頃 - 1052年)、トスカーナ辺境伯(4世)(在位:1027年 - 1052年)。カノッサ家(Canossiana)出身で、神聖ローマ帝国期の有力な領主の一人であり、レッジョ、モデナ、マントヴァ、フェラーラを支配した。
生涯
[編集]ボニファーチオは、ランゴバルド族の家系のアダルベルト・アットー(Adalberto Atto)またはアットーネ(Attone)の孫であり、アダルベルトの子テダルド・ディ・カノッサとその妻ウィラ(ボゾン家トスカーナ辺境伯の出身ともされる)との間の次男である。兄テダルトはアレッツォ司教となり、弟コッラードはロンバルディアの伯らとともにボニファーチオと対立したのち1030年死去した。
ボニファーチオは常に神聖ローマ皇帝を支持し、1014年、ロンバルディア領主による皇帝ハインリヒ2世への反乱を鎮圧した。1026年には、皇帝コンラート2世がイタリア王となるためアキテーヌ公ギヨーム5世と争った際に、ボニファーチオはコンラートに加勢した。これにより翌1027年にボニファーチオはトスカーナ辺境伯位を与えられた。ボニファーチオはまた1034年6月のブルグント王国継承に関するコンラート2世とブロワ伯ウード2世との戦いにおいても皇帝側で参戦している。一方で、強大化したボニファーチオの勢力に対し、皇帝は圧力を加えた[1]。
1056年5月6日、マントヴァ近くのサン・マルティーノ・アッラルジーネの狩りの途中で暗殺された。暗殺者はオパルマのスカルペッタ・デ・カネヴァリと言われており、暗殺の黒幕は皇帝ハインリヒ3世ともされている[2]。マントヴァに埋葬された。
子女
[編集]最初、ベルガモ伯ジザルベルト2世の娘リキルダ (Richilda) と結婚し、娘を一人もうけたが夭逝した。リキルダは1036年に死去した。
アルデンヌ家の上ロートリンゲン公フリードリヒ2世の娘ベアトリーチェ・ディ・ロタリンジャ(Beatrice di Lotaringia)と再婚し、3人の子供を持った。
- ベアトリーチェ(? - 1053年) - 夭逝
- フェデリーコ(? - 1055年) - トスカーナ辺境伯(在位:1052年 - 1055年)、夭逝
- マティルデ(1046年? - 1115年) - トスカーナ女伯(在位:1055年 - 1115年)
ベアトリーチェはボニファーチオの死後の1054年にロートリンゲン公ゴットフリート3世と結婚した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山辺規子「カノッサ家の盛衰 : 中世中期・北イタリアの貴族家系の一例」『研究年報』第37巻、奈良女子大学文学部、1994年3月、83-100頁、CRID 1050282813367647616、ISSN 0387-2769。
- 瀬原義生『ドイツ中世前期の歴史像』文理閣、2012年。
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