ハンス・ハイム

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ハンス・ハイム
Hans Haym
生誕 1860年11月29日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ハレ・アン・デア・ザーレ
死没 (1921-02-15) 1921年2月15日(60歳没)
ドイツの旗 ドイツ国 エルバーフェルト
ジャンル クラシック
職業 指揮者

ハンス・ハイムHans Haym 1860年11月29日 - 1921年2月15日)は、ドイツ指揮者

生涯[編集]

ハイムはプロイセンハレ・アン・デア・ザーレに生まれた。彼はイェーナテュービンゲンの両大学で学び、哲学と古典哲学を修めた。卒業後はミュンヘンで音楽を学び、履修した科目は作曲ピアノオルガン歌唱法などであった[1]

ハイムは1890年ユリウス・ブーツの跡を継ぎ、エルバーフェルトでコンサート協会の指揮者に就任した。1892年12月17日の演奏会にはベートーヴェンの「ヨーゼフ2世葬送カンタータ」、「ピアノ協奏曲第5番」、「交響曲第9番」を演奏している。ソリストに起用したのはJulia Uzielli、Jenny Hahn、フランツ・ナファルドイツ語版とアントン・シスターマンス(Anton Sistermans)であった[2]。聴衆の好みは保守的であったにもかかわらず、彼は可能であれば新しい音楽をプログラムに取り入れた。1895年リヒャルト・シュトラウス交響詩ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、1897年フレデリック・ディーリアスの幻想序曲「丘を越えて遥かに」(タイトルはドイツ語Über die Berge in die Ferneと紹介された)と、1899年演奏の同じくディーリアスの夜想曲パリ:大都会の歌」などである[1]。前任者のブーツはエルバーフェルトを離れてデュッセルドルフにおけるより重要な指揮者の地位に就こうとしており、ハイムはそのブーツにディーリアスの音楽を紹介した。後年、早くからエドワード・エルガーの音楽の第一人者となるブーツは、ディーリアスの作品も称賛するようになっていった[1]

また、ハイムはディーリアスの音楽をフリッツ・カッシーラーにも紹介している。カッシーラーはエルバーフェルトの市立劇場で音楽監督をしており、この劇場では1904年にディーリアスの歌劇コアンガ英語版」が初演された[1]。この頃にハイムは病に罹り、チロルでの療養を余儀なくされる[1]

ハイムはストラスブールでのより名高い音楽監督への任用を希望していたが、これは叶わなかった[1]。エルバーフェルトでの彼と彼のオーケストラは一流の音楽家の注目を集め、ラウール・プーニョウジェーヌ・イザイパブロ・カザルスフェルッチョ・ブゾーニアルトゥル・シュナーベルが彼らの元を訪れて共演している[1]。ハイムは1920年に音楽監督を退任し、1921年2月15日にエルバーフェルトで60年の生涯を閉じた[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h Carley, Lionel, "Hans Haym: Delius's Prophet and Pioneer", Music & Letters, Vol. 54, No. 1 (January 1973), pp. 1–24, accessed 6 November 2010 (Paid subscription required要購読契約)
  2. ^ Aufgeführte Werke 1890–1899” (German). konzertgesellschaft-wuppertal.de. 2013年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月1日閲覧。