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ハミーダ・バーヌー・ベーグム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハミーダ・バーヌー・ベーグム
حمیدہ بانو بیگم
ムガル帝国后妃
ハミーダ・バーヌー・ベーグム

出生 1527年
死去 1604年8月29日
アーグラ
埋葬 フマーユーン廟
子女 アクバル
父親 シャイフ・アリー・アクバル・ジャーミー
母親 マフ・アフルーズ・ベーグム
宗教 イスラーム教スンナ派
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ハミーダ・バーヌー・ベーグムヒンディー語: हमीदा बानो बेगम, ウルドゥー語: حمیدہ بانو بیگم‎, Hamida Banu Begum, 1527年 - 1604年8月29日)は、北インドムガル帝国の第2代皇帝フマーユーンの妃。同国第3代皇帝アクバルの母である。マリヤム・マカーニー(Maryam Makani)とも呼ばれる。

生涯

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1527年シーア派ペルシア人であるシャイフ・アリー・アクバル・ジャーミー(ミール・バーバー・ドースト)の娘として生まれた。父のジャーミーは、ムガル帝国の皇帝バーブルの皇子ヒンダール英語版の信仰上の導師でもあった[1]

1541年8月29日、ハミーダは14歳の時、ヒンダールの兄であり、バーブルの後継としてムガル帝国を継いだ皇帝フマーユーンと結婚した[2]。フマーユーンはスール朝シェール・シャーに追われに追われ、シンドに逃れていた。

2人の結婚の経緯は、ヒンダールの母ディルダール・ベーグムがフマーユーンを遊行に誘い、そこでフマーユーンがハミーダに一目ぼれし、彼が「あの娘と結婚する」といったことに始まる[3]。フマーユーンはハミーダのみならずヒンダールにも反対されたが、40日間求婚するという涙ぐましい努力の末、彼女もようやくそれに応じたのであった。また、フマーユーンの妹グルバダン・ベーグム英語版の説得も功を奏した[3]

しかし、フマーユーンとハミーダの結婚は、フマーユーンとヒンダールの関係を悪化させ、ヒンダールはフマーユーンのもとを離れた[1]。先述したようにハミーダの父ジャーミーがヒンダールの導師であったこと、そしてヒンダール自身がハミーダに目をつけていたからである[1]

1542年10月15日、ハミーダは息子アクバルを出産した[3]。アクバルの名はハミーダの父ジャーミーの名にちなんでつけられたものであった。

その後、1543年にはフマーユーンとともにイランサファヴィー朝へと向かった。後、皇帝フマーユーンは、ヒンダールと、さらに他の弟カームラーン英語版アスカリー英語版たちとも皇位継承を争うようになる。この骨肉の争いを、フマーユーンは征した。一方、ヒンダールは、別の兄カームラーンによって殺された。そして、インドをめぐるムガルの敵であるスール朝も、王位継承権を巡っての内乱によって、滅亡に近づいていた。

1556年、フマーユーンは階段から足を滑らせ、事故死した。彼の死後、息子のアクバルは側近の力によって、デリーを奪還し、皇帝に即位した。ハミーダもまた、カーブルからデリーへと向かった[4]

1604年8月29日、ハミーダはアーグラで死亡し、その遺体は夫の眠るフマーユーン廟に埋葬された[2]。両親の死後も、アクバルは戦い続け、やがてムガルをインド史上最大の帝国へと育て上げることとなる。

脚注

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  1. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.180
  2. ^ a b Delhi 3
  3. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.182
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.187

関連項目

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参考文献

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  • フランシス・ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』月森左知訳、創元社、2009年。