ハインリヒ・キッテル

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ハインリヒ・キッテル(1944年)

ハインリヒ・キッテル(Heinrich Kittel, 1892年10月31日 - 1969年3月5日)は、ドイツ陸軍軍人。最終階級は中将(Generalleutnant)。

第二次世界大戦中、ドイツ陸軍の将校としてメッツ要塞ドイツ語版の司令官などを歴任した。騎士鉄十字章受章者。戦時中のドイツで公には認められていなかったユダヤ人の虐殺(ホロコースト)や絶滅収容所の存在を把握していた陸軍将校の1人である。

経歴[編集]

1892年、ゲーロルツホーフェンドイツ語版にて生を受ける。

1911年、バイエルン陸軍ドイツ語版第2歩兵連隊ドイツ語版に入隊。その後の第一次世界大戦にも従軍する。敗戦時には近東方面で活動していたアジア軍団ドイツ語版第703歩兵大隊にて中隊長たる中尉を務めていた。

1920年から共和国軍第20(バイエルン)歩兵連隊ドイツ語版に勤務し、1931年には指揮官補佐教育ドイツ語版参謀教育の偽装名称)を受ける為に連隊を離れた。その後、陸軍兵器局に勤務。1936年、補充大隊の大隊長に任命される。1939年8月の動員を受け、第46歩兵師団ドイツ語版第24歩兵連隊長に任命され、ポーランド侵攻に参加した。翌年のフランス侵攻にも同連隊を率いて参加している。1941年5月、陸軍総司令部付の待機司令官(Führerreserve)に編入される。同年8月、北方軍集団に送られる。

1942年5月までに少将へ昇進し、東部戦線南方における前線指揮官としてドネツィクロストフ・ナ・ドヌザポリージャクルィヴィーイ・リーフウーマニテルノーピリレンベルククラカウを転戦した。メッツの戦いの最中の1944年11月、メッツ要塞ドイツ語版司令官および第462国民擲弾兵師団長に任命される。11月21日、負傷後に捕虜となり、1947年まで収監されていた。

ハインリヒ・キッテルは騎士鉄十字章およびドイツ十字章金章を受章している。また、弟のフリードリヒ・キッテル(Friedrich Kittel)は陸軍少将であり、彼もまた騎士鉄十字章受章者である。

ホロコースト[編集]

1944年、キッテルはイギリストレントパークドイツ語版収容所に送られた。トレントパークは将官専用の収容所で、イギリス側情報機関の監視下に置かれていた。ここでキッテルは次のように語ったという。

オーバーシュレージエンには、単に機械的に虐殺する為だけの人間が集められている。
„In Oberschlesien haben sie Leute einfach fabrikmäßig abgeschlachtet“[1][2]
大きなホールでガス処刑が行われた。
„In einer großen Halle sind die vergast worden“[1][2]

脚注[編集]

  1. ^ a b Hans Michael Kloth: Das posthume Geständnis der Nazi-Generäle. In: „Spiegel Online“ vom 2. Januar 2006.
  2. ^ a b Wolfram Wette: Ehrengesindel. In: „Die Zeit“, Nr. 42/2005 vom 13. Oktober 2005

外部リンク[編集]