コンテンツにスキップ

ナヤン (ジャライル部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナヤンモンゴル語: Nayan、生没年不詳)とは、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えたジャライル部出身の領侯(ノヤン)。第4代皇帝モンケから兄を差し置いてムカリ国王家当主となるよう要請されたが、あくまで兄を立てることを譲らず、その補佐に徹したことで知られる。

元史』などの漢文史料では乃燕(nǎiyàn)と表記される。

概要

[編集]

ナヤンの曾祖父は「四駿四狗」と讃えられた建国の功臣ムカリで、父は金朝平定南宋侵攻などに活躍したスグンチャクであった。スグンチャクが若くして急死すると、時の皇帝モンケはナヤンの兄のクルムシが「柔弱」であるとしてナヤンに跡を継がせようとしたが、ナヤンが固く固辞したため後継者はなかなか決まらなかった。結局、ナヤンがクルムシを全面的に支えることを条件にクルムシがムカリ家当主の地位に就き、兄弟は必ず両者協議の上物事を決めて行ったため、問題は起こらなかったという[1]

モンケの弟のクビライが東アジア方面の司令官に抜擢されると、クルムシとナヤン兄弟も華北方面の大軍団の指揮官としてその幕下に入った。クビライの下での軍議で典故に通じた発言をしばしば行ったため、クビライは「ナヤンは後に大いに用いられるだろう」と語りセチェン(Sečen、モンゴル語で「賢明なる者」を意味する)の称号を与えた。ナヤンは要職にありながらも謙慮な人柄で、一族の者に「行動を慎み騎慢な態度を取るなかれ。 偉大な先祖の名をおとしめるな」と常に語っていたという。しかし、ナヤンはそれからまもなく病で亡くなってしまい、これを聞いたクビライは深く惜しんだ[2]

兄弟間で当主位を譲り合った美談とは裏腹に、クルムシとナヤンの時期はムカリ国王家の権勢が最も凋落していた時代であった。クビライが東アジア方面の軍司令官に抜擢されたことでムカリとスグンチャクの時期のような華北の諸軍を統轄する地位は奪われ、更にはチンギス・カンの時期以来委ねられていた「五投下」軍団の指揮権も皇帝モンケに奪われた。ムカリ国王家の復権はスグンチャクの弟でナヤンにとっては叔父にあたるバアトルクビライの即位に大きく貢献することで果たされることとなる[3]。後にナヤンの弟のセンウ至元11年(1274年)に「スグンチャクのもと統べたるコンギラト等の五投下の兵を総べ」たというのは、クルムシとナヤンの時期にムカリ国王家が軍司令官としての地位を失っていた証左であるとされる[4]

ジャライル部スグンチャク系国王ムカリ家

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『元史』巻119列伝6乃燕伝,「乃燕、性謙和、好学、以賢能称。速渾察既薨、憲宗択於諸子、命乃燕襲爵。乃燕力辞曰『臣有兄忽林池当襲』。帝曰『朕知之、然柔弱不能勝』。忽林池亦固譲、乃燕頓首涕泣力辞、不得命、既而曰『若然則王爵必不敢受、願代臣兄行軍国之事』。於是忽林池襲為国王、事無巨細、必与乃燕謀議、剖決精当、無所壅滞」
  2. ^ 『元史』巻119列伝6乃燕伝,「世祖在潜藩、常与論事。乃燕敷陳大義、又明習典故。世祖謂左右曰『乃燕、後必可大用』。因号之曰薛禅、猶華言大賢也。乃燕雖居顕要、而小心謹畏、毎誨群従子弟曰『先世従太祖皇帝出入矢石間、被堅執鋭、斬将搴旗、勤労四十餘年、遂成功名。以故一家蒙恩深厚、可謂極矣。慎勿驕惰、以堕先王之名、爾曹戒之』。病卒。世祖聞之、為之悲悼。至正八年、贈中奉大夫・遼陽等処行中書省参知政事・護軍、追封魯郡公。子二人曰碩徳、曰伯顔察児」
  3. ^ 堤2000,199-200頁
  4. ^ 堤1996,78頁

参考文献

[編集]
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年