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ドルジーナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドルジーナウクライナ語/ロシア語: дружинаベラルーシ語: дружынаポーランド語: drużyna książęca)は中世のスラヴ社会(en)の公(クニャージ)に属する軍隊である。スラヴ諸語の「друг」(仲間・友人の意)に由来し[1][2]、日本語文献では従士団[3]、親衛隊[4]などと訳される。公と同様に、キエフ・ルーシ時代の重要な要素である。

(留意事項):本頁の歴史的用語の日本語訳は文献によって異なるものがある。出典は脚注を参照。

キエフ・ルーシのドルジーナ

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価値

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キエフ・ルーシの軍隊には3種類あり、本頁のドルジーナの他に、戦争時に都市や農村から動員された部隊と、遊牧民を雇った傭兵部隊があった[4]。ドルジーナは他の部隊とは異なり、常に戦闘準備のできていた軍隊だった。公にとっては、公位を獲得するのを助ける存在であり、助言者の役割も果たした。また他種族との絶え間ない戦争のあったキエフ・ルーシ期の公国・国民にとっては、信頼度の高い守護者となる軍隊をまとめ上げる力のある公は、評価に値する人物であった。このように、キエフルーシ期の統治者である公は、外部の敵に対する防衛力と同様、内部の秩序を維持するための軍事力を必要としていた。従って公はドルジーナを尊重し、また充分な贈与を与えていた。また、キエフ・ルーシ期は公・次いで貴族層を頂点とする身分制の敷かれた社会であったが、ドルジーナに加入することは、身分間の移動を可能にする手段の一つであった[5]

構成員と人数

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民族構成は一様ではなく、9世紀から12世紀のルーシのドルジーナには、ヴァリャーグルーシ族フィン人テュルク系民族ポーランド人マジャル人が見いだされる。構成人数は明確ではないが、おそらく数百人を超えてはいないと考えられている。922年アフマド・イブン・ファドラーンの記述によれば、キエフの公と共に「公の館には、公の戦友である勇者が400人いた」という。ボリス・ルィバコフ(ru)11世紀から12世紀の公の館について、概算で250から300人が居住できたとみなしている。ドルジーナは軍の核であり、おそらく、騎兵隊の主要な構成員だった。史上の主要な軍事行為において、中心的軍事力として参加したことが知られている。

職務

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ウラジーミル・モノマフと、狩猟に同行するドルジーナ。
ヴィクトル・ヴァスネツォフ1848年

ドルジーナの主たる役割は軍事行為への従事である。しかし軍事以外にも、下位の層のドルジーナは様々な公の依頼を実行し、また従者や護衛として公に同行した。これらのドルジーナは公の種々の評議会には参与できなかったが、例外として軍事評議会には参加した。なお軍事評議会には、軍事遠征に参加する同盟国民としての資格で、異民族出身のドルジーナも参加を許可されていた。

また、その性格は時代と共に変化した。すなわち、(1)9世紀末期 - 10世紀中葉:公の一門に従属する軍。(2)10世紀後半 - 11世紀前半:臨時募集によって集められた、長期間従事する連隊。(3)11世紀末期~:公から武器と馬を支給され、ヴェーチェ(民会[6]・市会[7])の決定により進撃する都市所属の連隊。というものであった。さらに、11世紀 - 12世紀のドルジーナは、明確に2つの層に分かれた。ロシア語では上位の層は「ドルジーナ・スタレーシャヤ」等と呼ばれ、下位の層は「ドルジーナ・モロドシャヤ」と呼ばれる[注 1]

この上位の層はボヤーレ(貴族[5][8][9])階級を構成した。ボヤーレは軍事・民事の高位の役職であるトィシャツキー(千人長[10]・千戸官[7])、ヴォエヴォダ(軍事司令官[11])、ポサードニク(代官[12]・公代理[7])などの役職を占めた。またボヤーレは公の評議員であり、最も影響力のあったヴェーチェの構成員にもなった。(なお、この時代のボヤーレにはドルジーナ以外の大地主・領地所有者も含まれる[13]。一方、モスクワ大公国では人数が数名から数十名に限定されていき、貴族会議の成員をなした[14]。ボヤーレの概念は時代によってやや異なる。)

一方、下位の層にはオトロク(下僕[3]・下級従士[15]・少年の従士団員[16])、デトスキエ(近習[17])、クメトィ(ru)、グリヂ(従士[3]・親衛兵[18](ru)などのいくつかの区分があった[注 2] 。このうちオトロクは最も若く、低い等級で、公の屋敷に勤務した。また、ホロープ(奴隷[19]・隷属農民[13](ru)の子も加入することができた。デトスキエは自由農民階級から構成された。なお、元来の公の概念とは、放浪性のあるドルジーナの統率者という意味合いであり、公国の君主という概念とは全く別のものであった。

社会的身分・公との関係

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ドルジーナは公が領地から得た収入によって扶養された。それ以外にも、軍事行為で得た戦利品の一部を手にすることができた。年代記には、上位の層のドルジーナは、自分に所属するドルジーナを有したという記述がみられる。また、上位の層のドルジーナが殺害されるという事件が起きると、犯人には2倍のヴィーラ(賠償金[20]。殺人罪に対する賠償金を指す言葉[21]。)が課された。なお後世になるにつれて、公は2倍の罰金制度を、下位の層のドルジーナにも適応させようと努めるようになった。

公が死亡した後は、仕えていたドルジーナは、基本的には死亡した公の後継者に譲渡された。しかしほとんどの場合、かつての公に仕えていたドルジーナが公国内での年功序列を主張し、すでに新たな公に仕えていたドルジーナは、これまでの信頼関係を盾に対抗した。よって、新旧のドルジーナの間は競争関係となることが多かった。

キエフ大公国の分化が始まる分領制時代までのドルジーナは、土地と結びつかず、公とのみ関係を持った。また、ドルジーナと公は、自由な契約関係を基本として結びついていた。ドルジーナ隊への加入・脱退は自由であり、意にそぐわない公を放棄して、他の公の元へ行くことができた。

しかしキエフ大公国の分化に伴い、リューリク朝は分家を生み、いくつかの地域に分かれていった。ドルジーナも各地に定住地を獲得し、財産としての土地を得るようになった。12世紀には既にドルジーナは土地を所有していた。これは、結果として、各地の民会・民兵の減少を意味した。そしてドルジーナ(並びにドルジーナから派生したボヤーレ)は、その初期には公の最も親しい戦友であったが、最終的には新しい貴族階級・ドヴォリャンストヴォ(ru)となり、公に敵対するようになった。

ポーランドのドルジーナ

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ポーランドの記念碑。ミェシュコ1世のドルジーナと、ポーランド第二共和国ウーワン。(ワルシャワ

pl:Drużyna książęca参照

脚注

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注釈

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  1. ^ 「ドルジーナ・スタレーシャヤ」はロシア語: дружину старейшую対格)を元に転写。直訳:最年長のドルジーナ。また「ドルジーナ・モロドシャヤ」はロシア語: дружину молодшую(対格)を元に転写。直訳:若いドルジーナ。
  2. ^ 「オトロク」「デトスキエ」「グリヂ」はそれぞれロシア語: отрок, детские, гридьの転写。

(脚注に記した以外の単語の転写元は、それぞれのリンク先を参照されたし。)

出典

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  1. ^ Online Etymology Dictionary
  2. ^ Meyers Großes Konversations-Lexikon
  3. ^ a b c 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p41
  4. ^ a b 伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p102
  5. ^ a b 伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p103
  6. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p51
  7. ^ a b c 伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p101
  8. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p36
  9. ^ アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史(上)』p63
  10. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p43
  11. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p38
  12. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p44
  13. ^ a b アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史(上)』p66
  14. ^ 和田春樹編『ロシア史』p118
  15. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p35
  16. ^ 井桁貞義『露和辞典』p636
  17. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p37
  18. ^ 井桁貞義『露和辞典』p176
  19. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p50
  20. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p47
  21. ^ 井桁貞義『露和辞典』p98

参考文献

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  • Загоскин, «Очерки организации и происхождения служилого сословия в допетровской Руси»;
  • Беляев, «О Д. и земщине». («Временник М. общ. ист. и др. рос.», I); Погодин, «О посадниках, тысяцких, воеводах и тиунах», (Временник, I); его же, «Исследование о древней русской аристократии» («Москвитянин», 1847);
  • Сергеевич, «Вече и князь»;
  • Ключевский, «Боярская дума древней Руси».
  • Стефанович П. С. ДРУЖИННЫЙ СТРОЙ В ДРЕВНЕЙ РУСИ И У ДРЕВНИХ ГЕРМАНЦЕВ: СУЩЕСТВОВАЛА ЛИ КЛЯТВА ВЕРНОСТИ ВОЖДЮ (ПРАВИТЕЛЮ)?//Древняя Русь. Вопросы медиевистики. 2008. № 2 (32). С. 33–40.
  • Стефанович П. С. ПОНЯТИЕ ВЕРНОСТИ В ОТНОШЕНИЯХ КНЯЗЯ И ДРУЖИНЫ НА РУСИ В XII–XIII в. //Древняя Русь. Вопросы медиевистики. 2008. № 1 (31). С. 72–82.
  • Горский А. А. Древнерусская дружина: (К истории генезиса классового общества и государства на Руси) / МГПИ им. В. И. Ленина. — М.: Прометей, 1989. — 124 с.
  • Амельченко В. В. Дружины Древней Руси. — М.: Воениздат, 1992. — 144, [16] с. — (Героическое прошлое нашей Родины).
  • 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。
  • 伊東孝之他編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 山川出版社、1998年。
  • アレクサンドル・ダニロフ他 『ロシアの歴史(上) 古代から19世紀前半まで』 寒河江光徳他訳、明石書店、2011年。
  • 和田春樹編 『ロシア史』 山川出版社、2002年。
  • 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。