タシュ・テムル (カンクリ部)
タシュ・テムル(モンゴル語: Taš temür、? - 1364年)は、大元ウルス末期の重臣。モンゴル帝国によって滅ぼされたカンクリ部王族の出身であった。
『元史』などの漢文史料では達識帖睦邇(dáshì tièmùěr)と表記される。
概要
[編集]タシュ・テムルはカンクリ部王族の末裔であるトクトの息子の一人で、国学に入って諸生となり、経史に通じる聡明な人物として知られていた。1347年(至正7年)には江浙行省平章政事、1348年(至正8年)には大司農務め、1349年(至正9年)には湖広行省平章政事の地位に移った。この頃沅州・靖州・柳州・桂州一帯では猺・獠が不穏な動きを見せており、朝廷は詔を降してこれを招論しようとした。これに対してタシュ・テムルは「3つの分省を静江・沅州及び靖州・柳州及び桂州にそれぞれ置き、左丞・右丞・参政らに兵を率いてこれらの地を治めさせるべきです。また靖州路総管府を廃止して改めて靖州軍民安撫司を立て、また万戸府を設けることで現地の兵を増やすべきです」と進言した。朝廷がこの進言を採用したところ猺・獠は尽く降り、この功績によりタシュ・テムルは中央に戻り大司農の地位に復した[1]。
1351年(至正11年)、台州では方国珍が大元ウルスに反旗を翻し、これを受けてタシュ・テムルは江浙行省参知事の樊執敬とともに派遣され方国珍を招論している。1352年(至正12年)には河南一帯で紅巾の乱が拡大したため、河南行省平章政事に任命されて河南方面に出向した。タシュ・テムルは各地の城壁を修復して防備を固め、賊軍の拡大を阻んだ。その後淮南行省平章政事を経て1355年(至正15年)には中央に戻って中書平章政事に任命された。その後、江浙行省左丞相・兼知行枢密院事に任命されて再び南方に赴いたものの、この頃の江南は日々情勢が悪化しており、北方の朝廷とも満足に連絡を取れない状況であったという[2]。
1356年(至正16年)正月には張士誠が平江を陥落させ、7月には江浙行省の治所のある杭州に迫ったため、タシュ・テムルは杭州を放棄して高陽に撤退した[3]。この時、「苗軍」[4]を率いて嘉興に駐屯していた楊オルジェイが駆けつけて張士誠を敗退せしめたため、タシュ・テムルはようやく杭州に帰還することができた[5]。タシュ・テムルは楊オルジェイの功績に対して海北宣慰使都元帥、江浙行省参政、江浙行省右丞相といった地位を与えることで報いたものの、楊オルジェイの率いる苗軍は民への略奪を繰り返し、杭州において日々評判を悪くしていた。しかし苗軍の軍事力を頼りとするタシュ・テムルは敢えて楊オルジェイに干渉するようなことはなかったため、楊オルジェイはますます驕慢になったという[6][7]。
1357年(至正17年)、張士誠は嘉興を攻めようとして何度も楊オルジェイに敗れたため、マンジ・カヤ(蛮子海牙)を派遣して大元ウルスに投降することを求めた[6]。マンジ・カヤはかつて江南行台の御史中丞であったが朱元璋に敗れて張士誠に降った人物であったという。張士誠の申し出に対してタシュ・テムルと楊オルジェイの意見は分かれ、前者は積極的にこの申し出を受けようとしたが、後者は淮南に赴任した時代にも張士誠を招論しようとして失敗した経験から、張士誠の申し出を信じられないと述べた。しかし楊オルジェイは張士誠の投降を受け容れるよう何度も勧めたため、タシュ・テムルもやむなくこれを認め張士誠を受け容れることになった[8]。投降後の張士誠は最初に王爵、ついで三公の位を賜るよう要請し、タシュ・テムルは「三公の位の授与は家臣が決める所のものではない」として断ったものの、ここでも楊オルジェイの要請により妥協を強いられることになった。結局、張士誠には太尉、その弟の張士徳には淮南行省平章政事、張士信には同知行枢密院事の地位が授けられることになった[6]。ただし、後に張士徳は朱元璋に敗れて捕虜となったため、張士信が昇格して淮南行省平章政事とされている[9]。
この頃、朱元璋の勢力が徽州・建徳を奪取したことにより楊オルジェイが出陣したものの、徽州の奪還に失敗してしまった[10]。また、楊オルジェイは既に嫁ぎ先の決まっていたチントンの娘が自らに嫁ぐよう強要した一件により、タシュ・テムルからも見限られつつあった[10]。かねてより楊オルジェイの排除を計画していた張士誠はこれを好機と見て密かにタシュ・テムルと結託し、タシュ・テムルの計略によって楊オルジェイは杭州の北で張士誠によって配下の苗軍ごと包囲殲滅されてしまった[11]。こうしてタシュ・テムルの悩みの種であった楊オルジェイは取り除かれたものの、今度は張士誠が杭州の事実上の主として君臨することになった[12]。
1359年(至正19年)、大元ウルス朝廷によって江浙行省平章政事に任じられた張士誠は浙西の民を挑発して杭州城の増築を行った。更に、長年途絶えていた江南から大都への米10万石余りの海上輸送に張士誠が成功すると、張士誠の権益はますます強化され、対照的にタシュ・テムルの権力は有名無実化した。その後、張士誠が再び王爵を要求すると、タシュ・テムルは「断っても殺されるだけである」と述べて恥を忍んで朝廷に王爵の授与を乞うたが、再三にわたる要請にもかかわらず認められなかった[11]。そこで遂に張士誠は自立して呉王を称し、大元ウルスと対立した[11]。また、もと江浙行省右丞であったダラン・テムル(答蘭帖木児)と、同じく江浙行省左右司郎中であった真保は張士誠に降り、タシュ・テムルを非難したため、タシュ・テムルと張士誠は相いれざる情勢となった[13]。
1364年(至正24年)、張士信は王晟らを派遣してタシュ・テムルの過失を責めたて、タシュ・テムルが掌る符印を奪って自ら江浙行省左丞相を称した。この1件が朝廷に報告されると、朝廷もやむなくこれを追認するに至った。符印を奪われたタシュ・テムルは嘉興に強制的に移され、張士信によって厳しく見張られた。タシュ・テムルは意に添わぬ軟禁生活を強いられたものの、日々妻妾と宴会を開いて泰然自若としていたという。この頃、張士誠は自らの発行する文書を「呉王令旨」とすべく行台御史大夫ブカ・テムルに強要したが従わなかったため、タシュ・テムルを拘束して連行しブカ・テムルを説得させた。しかしブカ・テムルは「我の頭を断とうとも、印を渡すことはできない」と述べ、妻子に別れを告げた上で詩を残し毒を仰いで自殺した。これを聞いたタシュ・テムルは「大夫がこのように死んだというのに、我はなぜまだ死なずにいるのか?」と述べ、ブカ・テムルと同じく薬酒を仰いで自殺した[14]。
後に、論者はブカ・テムルの死にざまはタシュ・テムルのそれに勝ると評したという[15]。
カンクリ部クリシュ家
[編集]- クリシュ(Quriš >虎里思/hǔlǐsī)
- キシリク(Kišilig >乞失里/qǐshīlǐ)
- クルク(Külüg >曲律/qūlǜ)
- イェイェ(Yeye >牙牙/yáyá)
- ブベセル(Böbeser >孛別舎児/bóbiéshèér)
- ホチキ(Hočiki >和者吉/hézhějí)
- ブベク(Böbek >不別/bùbié)
- オトマン(Otoman >斡禿蛮/wòtūmán)
- アシャ・ブカ(Aša buqa >阿沙不花/āshā bùhuā)
- トクト(Toqto >脱脱/tuōtuō)
- バアトル(Ba’atul >覇都/bàdōu)
- テムル・タシュ(Temür taš >鉄木児塔識/tiěmùér tǎshì)
- オズグル・トカ(Ozghur toqa >玉枢虎児吐華/yùshūhǔértǔhuá)
- バアトル(Ba’atul >抜都児/yùshūhǔértǔhuá)
- オルジェイ・テムル(Öljei temür >完者帖木児/ālǔhuī tièmùér)
- ネウリン(Neülin >紐璘/niŭlín)
- バアトル(Ba’atul >抜都児/yùshūhǔértǔhuá)
- タシュ・テムル(Taš temür >達識帖睦邇/dáshì tièmùěr)
- カダ・ブカ(Qada buqa >哈不花/wòtūmán)
- アルグ・テムル(Aruγ temür >阿魯輝帖木児/ālǔhuī tièmùér)
- トレ(Töre >脱烈/wòtūmán)
- 長寿安
- カダ・テムル(Qada temür >哈達帖木児/hādá tièmùér)
- 万僧
- オンギャヌ(汪家閭/wāngjiālǘ)
- ボロト・テムル(Bolod temür >博羅帖木児/bóluó tièmùér)
- キシリク(Kišilig >乞失里/qǐshīlǐ)
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「達識帖睦邇字九成。幼与其兄鉄木児塔識俱入国学為諸生、読経史、悉能通大義、尤好学書。初以世冑補官、為太府監提点、擢治書侍御史、以言罷。除枢密院同知、陞中書右丞・翰林承旨、遷大司農。至正七年、出為江浙行省平章政事。明年、又入為大司農、九年、為湖広行省平章政事。沅・靖・柳・桂等路猺・獠窃発、朝廷以渓洞険阻、下詔招諭之。達識帖睦邇謂『寇情不可料、請置三分省、一治静江、一治沅・靖、一治柳・桂、以左右丞・参政分兵鎮其地。罷靖州路総管府、改立靖州軍民安撫司、設万戸府、益以戍兵』。朝廷皆如其言。已而諸猺・獠悉降、召還、復為大司農」
- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「十一年、台州方国珍起海上。達識帖睦邇奉詔与江浙行省参知事樊執敬往招諭之。明年、盗起河南。拝河南行省平章政事。至則修城池、飭備禦、賊不敢犯其境。遷淮南行省平章政事。十五年、入為中書平章政事。時中書庶務多為吏胥遅留、至則責委提控掾史二人分督左右曹、悉為剖決。出為江浙行省左丞相、尋兼知行枢密院事、許以便宜行事。時江淮盗勢日盛、南北阻隔。達識帖睦邇独治方面、而任用非人、肆通賄賂、賣官鬻爵、一視貨之軽重以為高下、於是謗議紛然。所部郡県往往淪陥、亦恬不以為意」
- ^ 植松1997, p. 445.
- ^ 植松1997, p. 438-43.
- ^ 植松1997, p. 445-446.
- ^ a b c 植松1997, p. 447
- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「十六年正月、張士誠陥平江。七月、逼杭州、達識帖睦邇即棄城遁于富陽。万戸普賢奴力拒之、而苗軍帥楊完者時駐嘉興、亦引兵至、敗走張士誠。達識帖睦邇乃還。初、達識帖睦邇以完者為海北宣慰使都元帥、尋陞江浙行省参政、至是遂陞右丞。而苗軍素無紀律、肆為鈔掠、所過蕩然無遺、達識帖睦邇方倚完者以為重、莫敢禁遏、故完者矜驕日肆而不可制」
- ^ 植松1997, p. 447.
- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「明年、士誠寇嘉興、屡為完者所敗。士誠乃遣蛮子海牙以書詐降。蛮子海牙嘗為南行台御史中丞、以軍結水寨、屯采石、為大明兵所敗、因走帰士誠、故士誠使之来。而書詞多不遜。完者欲納之、達識帖睦邇不可、曰『我昔在淮南、嘗招安士誠、知其反覆、其降不可信』。完者固勧乃許之。士誠始要王爵、達識帖睦邇不許。又請爵為三公、達識帖睦邇曰『三公非有司所定、今我雖便宜行事、然不敢専也』。完者又力以為請、達識帖睦邇雖外為正詞、然実幸其降、又恐忤完者意、遂授士誠太尉、其弟士徳淮南行省平章政事、士信同知行枢密院事、其党皆授官有差。士徳尋為大明兵所擒。復陞士信淮南行省平章政事。然士誠雖降、而城池府庫甲兵銭穀皆自拠如故。於是朝廷以招安張士誠為達識帖睦邇功、詔加太尉」
- ^ a b 植松1997, p. 448
- ^ a b c 植松1997, p. 449
- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「当是時、徽州・建徳皆已陥、完者屡出師不利。士誠素欲図完者、而完者時又強娶平章政事慶童女、達識帖睦邇雖主其婚、然亦甚厭之、乃陰与士誠定計除完者。揚言使士誠出兵復建徳、完者営在杭城北、不為備、遂被圍、苗軍悉潰、完者与其弟伯顔皆自殺。其後事聞于朝、贈完者潭国忠愍公、伯顔衡国忠烈公。完者既死、士誠兵遂拠杭州」
- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「十九年、朝廷因授士信江浙行省平章政事。士信乃大発浙西諸郡民築杭城。先是、海漕久不通、朝廷遣使来徴糧、士誠運米十餘万石達京師。方面之権、悉帰張氏、達識帖睦邇徒存虚名而已。俄而士誠令其部属自頌功徳、必欲求王爵。達識帖睦邇謂左右曰『我承制居此、徒藉口舌以馭此輩、今張氏復要王爵、朝廷雖微、終不為其所脅、但我今若逆其意、則目前必受害、当忍恥含垢以従之耳』。乃為具文書聞于朝、至再三、不報。士誠遂自立為呉王、即平江治宮闕、立官属。時答蘭帖木児為江浙行省右丞、真保為左右司郎中、二人諂事士誠、多受金帛、数媒孽達識帖睦邇之短、以故張氏遂有不相容之勢」
- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「二十四年、士信乃使王晟等面数達識帖睦邇過失、勒其移咨省院自陳老病願退。又言『丞相之任非士信不可』・士信即逼取其諸所掌符印、而自為江浙行省左丞相、徙達識帖睦邇居嘉興。事聞朝廷、即就以士信為江浙行省左丞相。達識帖睦邇至嘉興、士信峻其垣牆、錮其門闥、所以防禁之者甚厳。達識帖睦邇皆不以為意、日対妻妾飲酒放歌自若。士誠令有司公牘皆首称『呉王令旨』、又諷行台為請実授于朝、行台御史大夫普化帖木児皆不従。至是、既拘達識帖睦邇、即使人至紹興従普化帖木児索行台印章。普化帖木児封其印置諸庫、曰『我頭可断、印不可与』。又迫之登舟、曰『我可死、不可辱也』。従容沐浴更衣、与妻子訣、賦詩二章、乃仰薬而死。臨死、擲杯地上曰『我死矣、逆賊当踵我亡也』。後数日、達識帖睦邇聞之、歎曰『大夫且死、吾不死何為』。遂命左右以薬酒進、飲之而死。士誠乃使載其柩及妻孥北返于京師」
- ^ 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝,「普化帖木児字兼善、答魯乃蛮氏、行台御史大夫帖木哥子也。累遷福建行省平章政事、時境内皆為諸豪所拠、不能有所施設。及遷南行台、又為張士誠所逼而死。然論者以為其死視達識帖睦邇為差勝云」
参考文献
[編集]- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 『元史』巻140列伝27達識帖睦邇伝