サラーミシュ
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サラーミシュ سلامش | |
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マムルーク朝第7代スルターン | |
在位 | 1279年 |
出生 |
1272年 |
死去 |
1291年 |
家名 | バイバルス家 |
王朝 | バフリー・マムルーク朝 |
父親 | アッ=ザーヒル・バイバルス |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
サラーミシュ(アラビア語: الملك العادل بدر الدين سلامش بن الملك الظاهر بيبرس 転写:al-Malik al-‘Ādil Badr ad-Dīn Salāmish b. al-Malik aẓ-Ẓāhir Baybars, 1272年 - 1291年)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)のスルターン(在位:1279年)。略してアーディル・サラーミシュ الملك العادل سلامش al-Malik al-‘Ādil Salāmish とも呼ぶ。またサラーミシュの部分はスラーミシュ Sulāmish とも言う。第5代スルターン・アッ=ザーヒル・バイバルスの子で、第6代スルターン・バラカの弟にあたる[1]。
生涯
[編集]1279年にマムルーク朝の将軍たちによってバラカが廃位された後、当時7歳のサラーミシュがスルターンに擁立された[2]。政府の有力者であった将軍カラーウーンがサラーミシュの後見人となり、政務・軍事を取り仕切り、公衆礼拝で読み上げられるフトバにはサラーミシュの名の次にカラーウーンの名が入れられた[1][2]。
カラーウーンの下でバイバルス家を支持する将軍たちは排除され、カラーウーンの支持者たちが起用された[1][2]。1279年11月27日にサラーミシュは廃位され[2]、カラーウーンがマムルーク朝のスルターンに即位した。
サラーミシュは廃位された後、カラクに移された[2]。1280年にダマスカス総督ソンコル(サンカル)がカラーウーンに対して反乱を起こした時、サラーミシュも反乱に加わった[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)