エルンスト・フォン・エスターライヒ (1553-1595)

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エルンスト(3世)
Ernst (III.)
オーストリア大公
エルンスト大公、マルティーノ・ロータ画、1580年頃

出生 (1553-06-15) 1553年6月15日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
死去 (1595-02-20) 1595年2月20日(41歳没)
ブリュッセル
父親 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世
母親 マリア・デ・アウストリア
役職 下オーストリア総督
内オーストリア総督
スペイン領ネーデルラント総督
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エルンスト(3世)・フォン・エスターライヒ(Erzherzog Ernst (III.) von Österreich[1], 1553年6月15日 - 1595年2月20日)は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と皇后マリア・デ・アウストリアの第4子、三男。下オーストリア総督、内オーストリア総督、スペイン領ネーデルラント総督を歴任した。

生涯[編集]

ルドルフ2世のすぐ下の弟であり、兄が独身を通したため事実上の後継者の地位にあった。そして家族内でさえ味方の少ないルドルフ2世にとっては、唯一の信頼のおける相談相手でもあった。1572年、ポーランド王ジグムント2世の死に伴う国王自由選挙で候補の一人となったが、フランスの推すアンジュー公アンリ(後のアンリ3世)に敗れた。

1590年に叔父の内オーストリア州侯カールが死ぬと、幼いその長男フェルディナント(後の皇帝フェルディナント2世)の後見人として州統治を代行した。1592年、ハンガリーにおけるオスマン帝国軍との戦闘で敗北している。その後、母方の伯父のスペインフェリペ2世によってネーデルラント総督に任命され、1594年にブリュッセルに入市したが、翌年に任地で死去した。フェリペ2世と教皇シクストゥス5世はエルンストに対抗宗教改革の推進を期待していたが、急死により政治的に業績を残すことはなかった[2]

しかしエルンストのブリュッセル滞在は、ハプスブルク家の美術品蒐集にとって重要な意味を持った。彼は任地でピーテル・ブリューゲルの存在を知ってその絵画作品の収集を始め、さらに兄ルドルフ2世にもブリューゲル作品の収集を勧めたのである。これがウィーンの美術史美術館のブリューゲル・コレクションの基礎となった。

参考文献[編集]

  • Constantin von Wurzbach: Ernst, Erzherzog von Österreich. Nr. 79. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 6. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1860, S. 180 f.
  • Almut Bues: Die habsburgische Kandidatur für den polnischen Thron während des Ersten Interregnums in Polen 1572/1573. Dissertationen der Universität Wien, Vereinigung der wissenschaftlichen Gesellschaften Österreichs, Wien 1984, ISBN 3-85369-559-0.

脚注[編集]

  1. ^ エルンスト3世と呼ばれるのは、エルンスト鉄公1世、その夭折した息子エルンスト(1420年 - 1432年)を2世と数えるためである。
  2. ^ Karl Eder: Ernst, Erzherzog von Österreich. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 4, Duncker & Humblot, Berlin 1959, ISBN 3-428-00185-0, S. 617 (電子テキスト版).

外部リンク[編集]

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先代
ルドルフ(5世)
下オーストリア総督
1576年 - 1593年
次代
マティアス
先代
カール(2世)
内オーストリア総督
フェルディナント大公の摂政)
1590年 - 1593年
次代
マクシミリアン(3世)
先代
マンスフェルト伯爵
スペイン領ネーデルラント総督
1594年 - 1595年
次代
フエンテス伯爵