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アンギル

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アンギルモンゴル語: Angir、? - 1295年)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では昂吉児(ángjíér)と記される。

概要

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アンギルの先祖は代々西夏国に仕えてきた武将の家系であったが、1221年辛巳)にアンギルの父のヤブ・ガンボチンギス・カンに投降し、以後モンゴル帝国に仕えるようになった。ヤブ・ガンボは千人隊長に任じられて国王ムカリの率いるヒタイ(華北地方)方面駐屯軍に所属したが、戦死してしまった。

アンギルは父の後を継いでモンゴル軍に属し、1269年(至元6年)からは南宋領の淮南に出兵して向かうところ敵なしの活躍を見せた。しかし、モンゴル馬にとって江南の酷暑は耐え難いもので往々にして病にかかってしまい、アンギルはこのため馬を太行山で休ませた。一方、南宋側でも河南一帯への進出が計画されており、アンギルは金剛台に進出してきた南宋軍の糧道を絶ってそれ以上の進出を防いだ。その上で、「河南の諸郡は南宋と国境を接しており、南宋はこの地を狙っている。唐州の東南は大山ばかりであるが、信陽は察州の南にあって九里・武陽・平靖・五水といった諸関に近い。南宋軍が常にこれらの諸関を通って侵攻することを考えれば、信陽こそが喉元というべきである。かつて金朝を減ぼしたとき、モンゴルは寿州泗州襄州郢州などを得ながら守兵を置くことなく、結果として南宋に取られてしまった。今こそ信陽に城を築いて南宋の侵攻を拒するべきである」 と進言した。この進言は受け入れられ、命を受けたアンギルは1,300の兵を率いて信陽に城を築き、南宋の侵攻を防いだ[1]

1272年(至元9年)には明威将軍・信陽軍万戸に任じられ、 ムカリとアジュが率いる軍団の内河西兵をアンギルは率いることになった。1274年(至元11年)に襄陽が陥落しバヤンを総司令とする南宋全面侵攻が始まると、アジュは本隊と別に准南一帯に侵攻し、アンギルはその一部隊として和州に駐屯した。これに対して南宋は4万の軍勢を派遣したが、アンギルは伏兵を設けその帰路を絶つことで大勝した。多くの投降兵はアスト軍によって監視されたが、その横暴な能度に不満を覚えた都統の洪福らが反乱を起こしたものの、すぐにアンギルによって平定された。その後廬州を包囲し、城主の夏貴は頑強に抵抗したが、臨安陥落の報が届くと遂に降った。臨安の陥落によって南宋は事実上滅亡したが、文天祥を中心とする一団が祥興帝を奉じて転戦し、これに張徳興が呼応し興国軍・徳安府の所郡を攻撃した。そこでアンギルが張徳興の討伐を命じられ、アンギルは一戦して張徳興軍を打ち破って張徳興を殺し、その3人の息子を捕虜とした。張徳興の勢力の討伐によって江左一帯はモンゴル軍によって完全に平定され、その後もアンギルは江左に駐屯した[2]

1277年(至元14年)、淮西道宣慰司を務めていたアンギルは淮西一体が長年金朝〜モンゴルと南宋の国境地帯となっていたがために耕作放棄地が多く、希望者を募って屯田を行い駐屯軍を養うべきだと進言したが、日本遠征を命じられていたアタカイが「屯田を行うには人手、牛、農具が非常に多くいる。今それとは別に日本遠征証のために民兵を徴発するとしたら、民の間に動揺が広まるだろう」と言って反対し、この進言が実行に移されることはなかった[3]。なお、このアンギルの上奏は「荒閑田土無主的倣屯田」と題して『元典章』戸部巻5に収録されている[4]

1283年(至元20年)、第3次日本遠征が計画されたことを聞いたアンギルは急ぎクビライに上奏し「兵は士気が重要であり、『上下の欲を同じくする者は勝つ(孫子の引用)』と言います。連年の外征によって兵の士気は低いため、遠征は延期して民を休ませるべきです」と語って再度の日本遠征計画に反対した[5]。結局、この時クビライがアンギルの進言を受け容れることはなかったが、この3年後の1286年(至元23年)に第3次日本遠征計画は取りやめとなり、後に編纂された『経世大典』では日本遠征計画中止におけるアンギルの活躍が特筆されている[6]

アンギルは1295年(元貞元年)に亡くなった。はっきりと物事を語る人柄であったため時にクビライを怒らせることもあったが、その怒りに屈することはなかったという。 子供は5人おり、そのうち昂阿禿は廬州蒙古漢軍万戸府ダルガチの職についた[7]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻132列伝19昂吉児伝,「昂吉児、張掖人、姓野蒲氏、世為西夏将家。歳辛巳、父甘卜率所部帰太祖、以其軍隷蒙古軍籍、仍以甘卜為千戸主之。従木華黎出征、病卒。昂吉児領其父軍、従征諸国有功。至元六年、授本軍千戸、佩金符。俄略地淮南、所向無前。時国兵初南、塞馬當暑、往往疥癘、昂吉児以所部馬入太行療之、所病良已。由是軍中馬病者、率以属焉、歳療馬以万数。宋輸糧金剛台、意将深入、昂吉児将兵馳往、断其輸道、因上言『河南辺郡与宋対境、宋兵時為辺患、唐州東南皆大山、信陽在蔡州南、南直九里・武陽・平靖・五水等関、宋兵必経諸関以入、信陽実其咽喉、守禦莫急焉。往年金亡、朝廷得寿・泗・襄・郢、而不留兵守、卒使宋得之、請城信陽、以扼宋』。得旨、令率河西軍一千三百人城之、城成」
  2. ^ 『元史』巻132列伝19昂吉児伝,「九年、加明威将軍・信陽軍万戸、佩虎符、分木華黎及阿朮所将河西兵俾将之。加懐遠大将軍。丞相伯顔渡江、留阿朮定淮南東道、其西道則属之昂吉児、駐兵和州。宋淮西制置夏貴遣侯都統将兵四万来攻、有謀内応者悉誅之、潜兵出千秋澗、塞其帰路、因出城奮撃、大敗之、獲人馬千計。鎮巣軍降、阿速軍戍之、人不堪其横、都統洪福尽殺戍者以叛。昂吉児攻抜其城、擒福及董統制・譚正将。遂攻廬州、夏貴使人来言曰『公毋吾攻為也、吾主降、吾即降矣』。宋亡、貴挙所部納款。昂吉児入廬州、民按堵無所犯、遷鎮国上将軍・淮西宣慰使。宋丞相文天祥復起兵海道、舒民張徳興応之、襲破興国・徳安諸郡、還拠司空山。詔昂吉児攻之、一戦而定、殺張徳興、執其三子以献。江左初平、官制草創、権臣阿合馬納賂鬻爵、江南官僚冗濫為甚、郡守而下佩金符者多至三四人、由行省官挙薦超授宣慰使者甚衆、民不堪命。昂吉児入朝、具為帝言之、且枚挙不循資歴而驟陞者数人。帝驚曰『有是哉』。因謂姚枢等曰『此卿輩所知、而不為朕言、昂吉児顧言之邪』。即命偕平章哈伯・左丞崔斌・翰林承旨和魯火孫・符宝奉御董文忠減汰之、選曹以清。仍詔諭江淮軍民、俾通知之」
  3. ^ 『元史』巻132列伝19昂吉児伝,「時両淮兵革之餘、荊榛蔽野、昂吉児請立屯田、以給軍餉、帝従之。既而阿塔海言『屯田所用人牛農具甚衆、今方有事日本、若復調発民兵、将不勝動搖矣』。議遂寝。未幾、宣慰使燕公楠復以為言、帝乃遣数千人、即芍陂・洪沢試之、果如昂吉児所言、乃以二万兵屯之、歳得米数十万斛。加輔国上将軍・河南行省参知政事・淮西宣慰使都元帥、進驃騎衛上将軍・行中書省左丞、加龍虎衛上将軍・行尚書省右丞、両官皆兼淮西使・帥」
  4. ^ 植松1997,77頁
  5. ^ 『元史』巻132列伝19昂吉児伝,「日本不庭、帝命阿塔海等領卒十万征之。昂吉児上疏、其略曰『臣聞兵以気為主、而上下同欲者勝。比者連事外夷、三軍屡釁、不可以言気、海内騒然、一遇調発、上下愁怨、非所謂同欲也、請罷兵息民』。不従。既而師果無功」
  6. ^ 『元史』巻132列伝19昂吉児伝ではアンギルがクビライに日本遠征計画中止を上奏した事を記した後に「かくて遠征軍は成功せずじまいだった(既而師果無功)」と記しており、あたかもアンギルの進言が第二次日本遠征(弘安の役)以前のことであったかのように記されるが、実際には世祖本紀や『経世大典』の記述から弘安の役以後のこととするのが正しい(植松2017,98-100頁)。
  7. ^ 『元史』巻132列伝19昂吉児伝,「昂吉児屡為直言、雖帝怒甚、其辞不少屈。台臣慮昂吉児難制、以牙以迷失不畏強禦、奏為本道按察使以察之。牙以迷失時捃摭昂吉児細故以聞、及廷辨、帝察其無他、輒遷其官、後竟以微過罪之。元貞元年卒。子五人、其顕者曰昂阿禿、廬州蒙古漢軍万戸府達魯花赤。曰暗普、海北海南道粛政廉訪使。孫教化的、世襲千戸」

参考文献

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  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101国立国会図書館書誌ID:000002623928 
  • 植松正「『経世大典』にみる元朝の対日本外交論」『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編』第016巻、京都女子大学、2017年3月、73-118頁、CRID 1050564287532057344hdl:11173/2466ISSN 1349-6018 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊; 65(新装版3)〉、2004年。ISBN 4876985227国立国会図書館書誌ID:000007302776https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776 
  • 元史』巻132列伝19