コンテンツにスキップ

ノート:天才

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

天才の評価

[編集]

天才の評価とは、しばしばその分野の主観的な思い入れや、特定の価値観による判断からなされる。 そのため、一般的な天才との評定は難しい。 今後、そのような編集合戦が起こるかもしれない。

--Sachio340 2006年7月22日 (土) 18:33 (UTC)[返信]

天才の基準がそうとう曖昧。音楽の分野、クラシックのあとにいきなりポップス? むちゃくちゃです。 マイケルが本当に音楽分野で天才ですか?0null0 2006年8月20日 (日) 08:44 (UTC)[返信]

  • (コメント)現在進行状態の芸能・スポーツを含めた時点で、既に「もう後戻りできない何か」に踏み出しているかと。まあ静かに見守るのがよさそうです。M.ジャクソンは児童虐待疑惑にも絡んで近年ではだいぶボロカスに扱われていますが、彼のダンスは天才的かどうかは兎も角として、そのセンスは独創的じゃあないかと思います。この辺りは、個人的には評価の確定しやすい故人・古人に限定した方がよさげだとも思いますが…まあWikipediaの性質(?)から言ったら無理かも(外部リンクはネタだと思ってください "orz)。夜飛 2006年8月20日 (日) 09:22 (UTC)[返信]

この項の 音楽 について

ある人物、団体について、それが天才であると評するには、一定の評判が必要であり、 大衆がそれについて納得することが必要と思われます。 当項のORANGE RANGEについては賛否が分かれており、 天才と評することについて明らかに大衆が納得をするとは思えません。以上の署名の無いコメントは、122.210.130.102会話/whois)氏が[ 2006年12月21日 (木) 03:49 (UTC)]に投稿したものです(幣原外交による付記)。[返信]

音楽に限らず、評価が固定されていない現存の人物を含めた時点で失敗している気がする。人の評価は当人が死んで遺物がすべて出揃うまで固定されない。ましてリアルタイムで業績に触れている人にとっての天才と、後世に語り継がれる天才とでは、評価の次元が違う。--夜飛 2006年12月22日 (金) 10:15 (UTC)[返信]

「天才」であるかどうかは常に他者の評価が決めるものだと思います。ある人間に才能があるか・無いかを議論するよりも、「天才だという評価があるか・無いか」を検証していく方が、「事実に基づいた記述をする」というWikipediaの方針に沿うのではないでしょうか。「評価のある無し」と、「才能があると考えるに足る具体的な業績」などが揃っていれば、「天才である」と認めてよいと思います。 また、こうした検証は既に故人となった人間にのみ適用したほうが良いと思います。現存する人間の評価は絶えず揺れ動くため、現存する人間を天才として取り扱う事はトラブルを招きます。この点で夜飛さんの意見に賛成です。 この項目で取り扱う「天才」は、「既に故人となった人で」「不特定多数から『天才である』との評価があると認められる人物」とすれば良いのではないでしょうか。 --Lahire 2007年7月24日 (火) 04:58 (UTC)[返信]

うーん、そうですね。ただ、下でKsさんが指摘されているキャッチコピーの扱いや「誰かが天才と評した」という類型で並ぶと、やはり収拾させ難い面があるかも。故人なら既に評価が確定しているので、ある程度は無駄なリストアップも抑制されるとは思いますが、各界に跨る「いわゆる天才と評された人」を列挙するのも、その各々のジャンルで羅列化が進行することも危惧されます。どの程度の評価があれば…という足切りは必要かも。
例えば該当人物の伝記を紐解くと漏れなく天才の評価が並ぶとか、比較的近代の例では飛躍的に特定分野を牽引して、それこそ神のように崇められちゃってる…とか?少なくとも伝記として明確に後世の記述者が天才と評価した(「天才的」という形容詞は除外)ケースに限定させても良さそうです。特に一種類の伝記に拠らず、複数の伝記に跨って天才と評価されているケースのみに。いずれにしても、現行の未整理なリストは後の作業で残す・残さないでごちゃごちゃした編集の火種になりそうなだけなので、一旦全部撤去して後…の話だとは思います。--夜飛/ 2007年7月24日 (火) 14:46 (UTC)[返信]

2007年11月12日の除去ないしコメントアウトに関して

[編集]
「秀才との相違」
出典が不明で、常識の範疇でも妥当性が判別できず、コメントアウトとしました。具体例らしきものが引用されているのですが、その出典元が何であるかも不明です。
エジソン関係
天才はエジソンだけの属性というものではなく、それ以外にも様々な天才がいるため、エジソンのことだけで冗長になることは妥当とはいえないと思います。エジソンのことはエジソンの項で記述すればいいのであって、エジソン一人をもって天才の全てを説明可能だとするのは、他の天才を否定しない限り無理だと思います。

ほか、過去のコメントアウト部分で、特に不要と思われる部分を除去、加えてWikipediaのマークアップを無視して追加された、或いは果たして天才の範疇に含むべきなのか、単に才人の域にあるだけなのか多分に主観の絡みそうな「各分野の「天才」として有名な人物」を除去しました。--夜飛 2007年1月12日 (金) 09:15 (UTC)[返信]

天才#各分野の「天才」として有名な人物に関して

[編集]

天才#各分野の「天才」として有名な人物に関して 著名人の列挙に堕している感が強かったので、明確に天才として評価されている(と少なくとも小生が知る範囲で)を残して、それ以外をコメントアウトしてみましたが、一部判断が付きかねた音楽関係者なんぞは手付かずです。著名人の列挙では天才性の何たるかを示す役には立たないと思います。--夜飛 2007年1月14日 (日) 09:56 (UTC)[返信]

それに、少なくとも数世紀にわたって名前が残る(であろう)、人類にとっての新しい知見を切り開いた人物のみ加えてください。単なるメダリストや著名スポーツ選手、有名人を加えていくと膨大な人数になるし、そもそもそれは天才とは異なります。--史跡めぐり 2007年1月24日 (水) 18:40 (UTC)[返信]

一覧除去の提案

[編集]

この部分なのですが、既に編集合戦の火種となりかねない事態も度々発生、冗長に未整理、かつ妥当性も危ぶまれる「(僕の尊敬する)有名人」の羅列にしかなっていない虞があり、天才性が何たるかの説明にはならない問題を含んでいると考えます。この状態は記事の健全な発展を妨げ、本来は追加されるべきでなないような「天才と明確に定義されたことの無い人物」の羅列として記事の可読性を損なっていると考えます。むしろ天才性の説明に於いて蛇足とも言える無駄な一覧と化しているため、むしろ除去こそ相応しいのではないのでしょうか。小生としては現状の「整理されて無い羅列」が改まらず追加するかしないかで争いの火種となる以上は、「むしろ除去して一覧を設置しないこと」を提案いたします。--夜飛/ 2007年7月3日 (火) 08:58 (UTC)[返信]

除去に賛成します。現在の一覧を見た限りですと、一覧に載っている人と載っていない人の差がよく分からない状態ですし…。マルクスがあるのにエンゲルスが無いとか、芸術ではルノワールロートレック安藤広重狩野派の画家などは天才ではないのかとか、音楽ではシューベルトチャイコフスキーなどは違うのかとか、江戸川乱歩があるのにコナン・ドイルが無いとか、剣術に千葉周作が無いとか、相撲に千代の富士が無いとか、映画監督に北野武はあるのに黒澤明が無いとか、漫画家に藤子不二雄赤塚不二夫が無いとか…適当に挙げてみただけでも無数にあります(大体、一覧に挙げられた人たちが"天才"と称された出典はあるんでしょうか?)。なんだか国民栄誉賞の選定の曖昧さと同様な状態になっているので、明確な基準が設けられないのならいっそのこと除去してしまった方が今後のためでしょう。--松茸 2007年7月5日 (木) 17:55 (UTC)[返信]
同じく除去に賛成します。基準も出典もなく何の価値もない羅列になってしまっています。「優れた才能を示した人物」=「天才」じゃないですよねぇ。--端くれの錬金術師 2007年7月7日 (土) 16:13 (UTC)[返信]
今のままだと意味の無いリストとして膨張していくだけですし、「天才」の定義をはっきりさせてリストを管理するのも困難だと考えられますので、除去に賛成します。--おーた 2007年7月9日 (月) 06:01 (UTC)[返信]
削除に賛成。ちなみに、転載の選定に出典を論ずべきではありません。なぜならどこかで誰かに天才と書かれた人間なら、掃いて捨てるほどいるだろうからです。売り出しのキャッチフレーズとしても天才は存在しますし。--Ks 2007年7月9日 (月) 06:36 (UTC)[返信]

慎重を期すため、2007年8月3日以降まで作業は行わず意見をお待ちします。なお他項で「フィクション関係のリストに関して一覧記事化」をした小生ですが、本項では特に一覧記事化は(現リストが余りにも主観的応酬の末に妥当性・正確性が危ぶまれるため)考えておりません。意見を得る上で特に個別にはご挨拶しなくて申し訳ありませんが、引き続き提案への意見をお待ちします。--夜飛/ 2007年7月8日 (日) 09:28 (UTC)[返信]

現時点では特に反対ありませんね…下準備として、「天才たりうるタイミング」が出典もなく同リスト同様に天才と評すべきかどうか微妙な人物を挙げて説明するという同系統の問題を引き起こしていたので、一端コメントアウトしました。また、過去に問題点を挙げてコメントアウトしてあったエジソン冗長部分と「秀才との相違」が長らく有効な反論もなく放置状態にあったので除去しました。というか…誰よ、これ復活させたの。3日までに妥当な反対意見が見られない場合は、反対4で件のリストは全面除去となりますので、もう少し本文の方も手を入れる必要がありそうです。--夜飛/ 2007年7月30日 (月) 13:31 (UTC)[返信]

本件に関して、一覧除去賛成4・反対0に付き、天才#各分野の「天才」として有名な人物の節を除去します。--夜飛/ 2007年8月3日 (金) 15:18 (UTC)[返信]

現在の記述に関して

[編集]

素朴な質問なのですが、現在参考文献が3つばかり示されていますけれど、本文記事に書かれている記事のどの程度がこの参考文献に拠っているのでしょうか。そのあたりを、脚注をつけて出典をはきっりさせて行くべきだと思うのですがいかがでしょうか。それをやっておかないと、「~~の天才のこんなエピソード」のような無責任な書き込みは今後も続くでしょうし、そういうのを書き込まれた度に議論して除去しなければなりません。むしろ、出典のある記述だけで記事を固めてしまって、その後の出典なき書き込みはダメだとしてしまえば(これはWikipediaの編集方針に合致しています)、メンテもそれほど苦労しないと思います。

私が関わった例で恐縮なんですが、サブカル系用語でセカイ系という項目があって、過去に編集合戦が何度も起こりました。で、ある時点でどの程度出典に基づいている記述なのか調べてみたことがあります。私が見たときには、大分整理が進んでいてこんな状態だったんですが、まだまだ独自研究が大幅に入り込んでいる様子です。そこで、挙げられていた参考文献に目を通して、セカイ系に関する抜書きを作ってみました。その上で、その当時の記事のどこまでに参考文献に拠っているのか確認したのがこれです。おおよそ記事を17の部分に分けると、6つしか出典が確かめられませんでした。

それで、ノートで合意をとった上で、参考文献に書いてあることだけで記事を大幅改稿しました。当然、お気に召さない方々もいらっしゃいましたが、「加筆の際は出典明記を」という方針でその後は安定しています。(一度、削除依頼が出されてますけど、あっさり却下。)出典明記できる記述だけで書くと、記事が面白くなくなるという意見もあるのですが、ひとつの方法論として有効かなと思います。もともとそれがWikipediaの方針ですからね。以上、ご参考に。--おーた 2007年8月14日 (火) 03:07 (UTC)[返信]

記述の可否を出典に求めるのも良いのですが、場の空気のように特定書籍に偏重しすぎた記事というのも考え物。記事としてのバランスが難しいところです。こと「天才」という概念が余りにも普遍的過ぎて、曖昧模糊とした個人の中の価値観念の延長的に書き綴られる部分も問題で、過去には天才の項でもエジソン関係の書籍でやたらエジソンのエピソードだけが長々と書かれ、ノートでも上に挙げたような「エジソンだけが天才じゃない」という問題にも発展したこともあり、「出典さえあればなんでもOK」的にバランスを逸した記述がなされることも警戒したく思います。ただどういう訳か、天才の項で今のところ「何やら出所が怪しい記述」などで天才の適用範囲の拡充(乱用?)を目論む向きが極めて限られた利用者さんだけでもあるため、個別対応で済んじゃってもいますが。
こと本項では、何を持って天才の説明とするか(少なくとも「才能や能力のある人の列挙は不適切」など)という点でも取捨選択が必要かもしれません。--夜飛/ 2007年8月14日 (火) 04:20 (UTC)[返信]
「天才」って言葉を使っているだけじゃ出典として弱いし、個別の天才についての記述(たとえばアインシュタインの伝記)でもダメで、「天才」という現象について扱っている書籍に限定するんでいいんじゃないですか?「天才」という項目にとって、個々の天才のエピソードは一次情報源なんですよ。そういう一次情報源から、「天才とはカクカクシカジカである」という考察を書いた文献があれば、それを二次情報源として利用すれば良いんです。そういう個々の天才のエピソード(一次情報源)を集めてWikipedia上で考察を加えたら、それは「独自研究」でアウトだし、個々の天才のエピソードを並べるだけなら百科事典じゃありません。Wikipediaが参照するのは原則として二次情報源です。
だから、「天才とはどういう存在なのか」を扱った書籍(個人の伝記はアウト)に参考文献を限るのは至極まっとうな考え方ですよ。現在、参考文献に上がっている3冊は、まさしくそういう本でしょ?とりあえず、そこに書かれていない話は全部切っちゃっていいんじゃないですか?で、今後「この本にこういうことが書いてある」という形で加筆があれば、その本が二次情報源として適切かどうかを判断すればいいでしょ。このページのローカル・ルールとして考えても良いんじゃありませんか?--おーた 2007年8月14日 (火) 07:07 (UTC)[返信]
そうですね、確かに(個人属性を差っ引いた)「天才」そのものを扱った書籍に出典を求めるというのも一つの手ですね。もっとも、小生はそれら3冊に関しては読んだことが無いのでコメントは差し控えます。--夜飛/ 2007年8月14日 (火) 07:19 (UTC)[返信]

編集保護関連

[編集]

Wikipedia:コメント依頼/林古木で出た話題なのですが、別件なのでこちらに場を設けます。

天才の項は現在、天才という概念が余りに広大かつ様々な概念を含んで定義に揺らぎもあり、より多くの執筆者の参加を必要としていると考えられます。反面、過去に存在した「天才とされる人物」羅列問題の延長的な、一部参加者による必ずしも妥当かどうか疑わしい記述の追加に次ぐ追加で説明内容が迷走するなどの問題も産んでいます。その点で記事の半保護措置を申請して編集参加者をログオンユーザーに限定させてしまうべきか、または特に保護せず従来どおり広く編集参加者を募るべきかという問題にも行き当たります(過去にはWikipedia:意見募集中のリストにも提出されておりますが)。

編集半保護などを求めるべきか否か、意見などありましたら宜しくお願いします。--夜飛/ 2007年8月20日 (月) 16:04 (UTC)[返信]