浅賀ふさ
あさが ふさ 浅賀 ふさ[1] | |
---|---|
生誕 |
1894年2月17日[1] 愛知県半田町[2] |
死没 | 1986年3月3日(92歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 研究者・医療ソーシャルワーカー |
親 | 小栗富次郎[1] |
浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986年3月3日)は、愛知県半田町[2](後の半田市)出身の医療社会事業家で、日本における医療ソーシャルワーカーの先駆者である。
生涯
生い立ち
愛知県半田町に、父、小栗富次郎と母、しげの次女として生まれた[1][2]。小栗富次郎は、酒造・海運・金融業で財をなした家柄で、豪商として名を馳せた[1]。13歳で日本女子大学付属高等女学校に入学した後、日本女子大学へ進学した[3]。浅賀は、母親の女性の幸福は結婚や家庭にあるという考え方に反僕していた。陸軍の飛行教官であった長兄の常太郎がニューヨークで三井家の飛行士として赴任するにあたって、父親に直談判し、浅賀も同行することを決めた[3]。しかし、渡米後、経済状況の悪化により、兄の仕事は立ち消えとなり、帰国することになる[3]。浅賀は、アメリカに残ることを希望し、兄の計らいによりボストン在住のリーランドの支援を受け、アメリカでの滞在を継続することにした[3]。
社会事業家を志すきっかけ
浅賀は、扁桃腺の摘出手術をきっかけに人に尽くす仕事がしたいと考え、社会事業に関心を持ち、1924年にシモンズ大学社会事業大学院に入学した[3]。在学中に、アメリカで最初に病院に医療社会事業を導入したマサチューセッツ総合病院医師のキャボットとの出会いが、医療社会事業家を志すきっかけとなった[3]。その後、ハーバード大学教育大学院で幼児教育を一年間学んだ[3]。
医療ソーシャルワーカーとして働く
1901年に開設された聖ルカ病院(のち聖路加国際病院)は、当時の日本にはない先進的な医療体制・医療環境を整える病院として知られていた[4]。浅賀は、病院を設立した同病院院長のトイスラーにニューヨークで面会し、聖ルカ病院に入職することになった[5]。1929年アメリカから帰国し、聖ルカ病院に新たに開設した医療社会事業部に入職した[5]。医療社会事業は、20世紀初頭にイギリス、アメリカ、フランスなどで始まり、当時の日本での取り組みはなく、浅賀により日本で初めて欧米で発展した理念に基づく医療社会事業が導入された[6][4]。医療社会事業部では、チャリティクリニックという貧しい患者を対象とした無料、低額の診療事業が行われた[7]。一定のベッド数が、チャリティクリニックのために確保されていた[7]。 社会事業部は、次第に発展し、スタッフ10人を要する部署となり、1933年には作業治療部がつくられ、リハビリテーションやグループワークにも取り組んだが、戦前の病院社会事業は聖ルカ病院に止まり、他の医療機関への展開はなかった[7]。
婦選獲得運動に参画する
浅賀は、医療ソーシャルワーカーとして働くと同時に、婦選獲得運動にも参画し、東京支部の役員として、市川房枝らと共に活動した[7]。
脚注
- ^ a b c d e 室田保夫『人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ』ミネルヴァ書房、2006年5月30日、221頁。
- ^ a b c 田中秀和「浅賀ふさの生涯に関する研究」『新潟医療福祉会誌』第17巻第2号、新潟医療福祉学会、2018年3月、15頁、NAID 120006791210、2021年2月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g 室田保夫『人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ』ミネルヴァ書房、2006年5月30日、222頁。
- ^ a b 五味百合子『社会事業に生きた女性たち』ドメス出版、1973年6月15日、246頁。
- ^ a b 室田保夫『人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ』ミネルヴァ書房、2006年5月30日、223頁。
- ^ 『尾張の女性』浜島書店、1996年2月15日、86頁。
- ^ a b c d 『尾張の女性』浜島書店、1996年2月15日、88頁。
参考文献
- 五味百合子『社会事業に生きた女性たち』ドメス出版、1973年6月15日。全国書誌番号:71005189。
- 室田保夫『人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ』ミネルヴァ書房、2006年5月30日。ISBN 4-623-04519-6。
- 愛知県社会科教育研究会尾張部会『尾張の女性』浜島書店、1996年2月15日。ISBN 4834390012。