氏爵

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氏爵(うじのしゃく)とは、平安時代より、毎年正月6日(5日、または7日)に行われる叙位に際し、王氏源氏藤原氏橘氏などの正六位上の者より、毎年1人ずつ各氏長者が推挙した者を従五位下に叙すことをいう。従五位下に叙せられることを叙爵ということから、各氏に対する恒例人事として氏爵と呼んだ。別称として氏挙(うじのきょ)ともいう。

概要

氏爵は蔭位の制同様、有力氏族への特典であり、氏長者の推挙により叙位が行われた。各氏とも正六位上の者は常に複数いるのが通常であり、新たな官途を得んとする者は、氏長者に対して申文という申請書を提出、氏長者がそのうちから適任者を選考したとされる。正月の叙位だけでなく、代替わりの儀式である即位大嘗会朔旦冬至などの叙位においても実施された。氏爵について『西宮記』巻1は次のように説明している。

「氏爵一世源氏(従四位上、当君三位)、二世孫王(従四位下、自解依巡、預昇殿者超越、貞観孫王従五位下)、王氏(一親王挙、四世以上、依巡)、源氏(長者挙、弘仁御後隔三年)、藤氏(同上、有四門)、橘氏(是定挙)」

一世源氏、二世孫王については実例が少なく、氏長者の推挙によるものではない。伴氏佐伯氏百済王氏和気氏についても氏爵が行われていたことが確認できるが、即位、大嘗会、朔旦冬至に限定されるため、一般的な氏爵は王氏、源氏、藤原氏、橘氏の四氏である。平安時代において氏は複数の家に分立して徐々に解体の方向に向かったが、氏爵の制度はそれらの家を繋ぎ止め、氏長者の下に結集させる役割を果たした。

推挙者

王氏

王氏は諸王の集団であり、令制では皇玄孫(四世)までを範囲としていた。慶雲3年(706年)に五世王まで拡大されるが、貞観12年(870年)に諸王の数が429名に定められた。嵯峨天皇以降は臣籍降下が増加し、諸王の数は減少する。推挙は第一親王(親王の中で官位の最も高い者)の役割だったが、院政期になると法親王制の確立により親王がいなくなり、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川伯王家が、王氏長者として氏爵を行うようになった[1]

源氏

源氏の氏爵は源氏長者が担当した。『西宮記』巻13には「王卿中、以触弘仁御後人為長者」とあり、源清蔭(中納言、陽成源氏)・源高明(権中納言、醍醐源氏)より官位の低い源等(参議、嵯峨源氏)が長者だったことから分かるように、当初は長者になれるのは弘仁御後(嵯峨源氏)だった。しかし、平安後期になると堀河天皇外戚として廟堂を席巻した村上源氏の手に移った。

藤原氏

藤原氏の氏爵は藤氏長者が担当した。当初の藤氏長者は官位の最も高い者が就任していたが、藤原道長以降は朱器台盤や長者印と共に前任者から譲渡される地位となった。なお『西宮記』の「有四門」、『権記』長徳4年(998年)11月19日条の「巡相当京家」の記述から、南家北家式家京家で順番に叙爵していたようであるが、時代が下ると北家の優勢により他の三家が氏爵を受けることは稀になった。

橘氏

橘氏については永観元年(983年)に参議・橘恒平が没したのを最後に公卿が絶え、氏院(学館院)を管理する長者と氏爵を行う是定が分離した。『西宮記』に是定の語があることから、源高明が失脚する安和2年(969年)以前には、すでに他氏の公卿が橘氏の氏爵を代行する慣例が成立していたと見られる。寛和年間(985年987年)に藤原道隆の外祖母が橘氏出身であったため、是定の地位は藤原北家が獲得した。平安末期の九条兼実は前任者の松殿基房から是定の地位を譲られ(『玉葉』安元3年(1177年)6月5日条)、橘氏長者の橘以政を呼び寄せて氏爵の準備を進めており(『玉葉』同年12月29日条)、氏爵推挙権の掌握によって橘氏の氏人を統制していた様子が分かる。

脚注

  1. ^ 「王氏の爵の事、往昔第一親王これを挙ぐ。中古以来、諸王の中、長者たる者これを挙ぐ。年来神祇伯顕広王の挙ぐる所なり」(『玉葉』治承2年(1178年)正月5日条)

参考文献

  • 竹内理三 「氏長者」『律令制と貴族政権.第2部』御茶の水書房、1958年
  • 宇根俊範 「氏爵と氏長者」『王朝国家国政史の研究』坂本賞三編、吉川弘文館、1987年
  • 田島公 「「氏爵」の成立-儀式・奉仕・叙位-」『史林』71-1、1988年

関連項目