晏殊

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晏 殊(あん しゅ、991年 - 1055年)は、北宋撫州臨川(現:中国江西省南昌市進賢県)出身の詩人(人)。同叔。息子の晏幾道と共に二晏と称される。

神童と呼ばれ、7歳で文を作った。14歳で宋代最初の童子のための進士の試験を受け、翌年廷試を受けて進士となり、時の皇帝真宗から秘書省正字に任じられた。明道元年(1032年)、参知政事になった。同年、李宸妃の墓志銘に関して仁宗の怒りに触れ[1]、、金陵太守に降格された。

慶暦2年(1042年)に中央政界に復帰し、宰相になった。しかし慶暦4年(1044年)、李宸妃の一件を契機に再度多くの非難を受け、収賄を理由として知州に降格された。

脚注

  1. ^ 仁宗の実母・李宸妃の墓志銘は晏殊の執筆である。仁宗は李宸妃から取り上げられ劉氏(後の章献皇后、皇太后)の子とされたが、晏殊は劉氏を恐れ、李妃は1人の公主だけを産んだと記した。