史可法

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史可法

史可法(し かほう、1601年 - 1645年5月20日)は、明末の政治家・軍事家。字は憲之道鄰。祥符(現在の河南省開封市)出身。溧陽侯史崇の第49世裔孫に当たる。

崇禎年間に進士に及第し西安府推官に任命され、その後戸部員外郎、郎中などを歴任した1635年(崇禎8年)、盧象昇に従い各地の農民反乱を鎮圧、1637年には張国維の推薦を受け都御史に抜擢、安慶廬州、太平、池州及び河南江西湖の府県を巡撫している。その後漕運総督、南京兵部尚書を歴任し、朝政の中枢に参与するようになった。1644年李自成により北京が陥落すると、弘光帝を擁立し南明政権を樹立、自ら礼部尚書兼東閣大学士となり、史閣部と称した。が入関すると、清との協力関係の構築と李自成征伐を主張するが、馬士英など清涼に反対され失脚する。失脚した後は督師淮揚として、江北四鎮の勢力と協力し清に対抗するようになった。

その後、南明の支配地域が次々と清勢力に占拠されていくことになる。史可法は揚州に逃れ抵抗を試みるが、5月10日にドドにより揚州は包囲される。援軍もほとんど期待できない状況で、ドルゴンは史可法に降伏を勧告するが、史可法はこれを拒否する。清軍が城内に侵入すると、史可法は自刎した。

揚州攻撃に甚大な被害を出したドルゴンは、城内の虐殺を命令し、10日間にわたり80万人が虐殺される揚州十日と称される事件が引き起こされた。