北陸宮

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北陸宮
続柄 以仁王第一王子

身位
出生 永万元年(1165年
山城国
死去 寛喜2年7月8日1230年8月17日))
山城国葛野郡嵯峨野
埋葬 不明
不明
配偶者 正室:不詳
  妻:藤原宗家の娘
子女 王女:土御門天皇皇女(養女)
父親 以仁王(第77代 後白河天皇の第三皇子
役職 不明
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北陸宮(ほくろくのみや[1]永万元年(1165年) - 寛喜2年7月8日1230年8月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の皇族源義仲軍に挙兵の正当性として奉じられていた。木曾宮・還俗宮・加賀宮・野依宮・嵯峨の今屋殿などと呼ばれる。

生涯

北陸宮は、後白河天皇第三皇子平家追討の令旨を出した以仁王の第一王子として生まれた。異母弟に初代安井宮である道尊がいる。永万元年(1165年)誕生というが、仁安2年(1167年)誕生説もある。治承4年(1180年)5月、父が平氏との合戦で敗死すると、出家して乳母の夫・讃岐前司重秀に伴われて越前国へ逃れた。以仁王の王子である宮には追っ手がかかる可能性があったが、9月には信濃国で以仁王の令旨をかかげた木曾義仲が挙兵。宮はその庇護を受けるかわりに、義仲軍の「錦の御旗」に奉じられることとなった。義仲は越中国宮崎御所をつくらせると、そこで宮を還俗させると同時に元服させた。この知らせには鎌倉の源頼朝も動揺したようで、これに対抗して意図的に「以仁王は生存しており鎌倉で匿われている」という流言を広めている[要出典]

寿永2年(1183年)7月、平家を都落ちさせた義仲の軍勢がついに入京を果たした。しかしこの軍中に北陸宮の姿はなく、宮はこの頃加賀国に滞在していた。義仲は親しかった俊堯僧正を介して宮を皇儲にと後白河法皇に働きかけたが、法皇は卜占をもとに8月20日には安徳天皇の異母弟・四ノ宮を皇位に即けた(後鳥羽天皇)。宮は9月19日になって京都に入り[2]、法皇とともに法住寺殿に身を寄せていたが、義仲が法住寺合戦に踏み切る前日の11月18日に逐電[3]、その後行方知れずとなった。

宮が再びその姿をみせるのは2年後の文治元年(1185年)11月のことで[4]、頼朝方の庇護のもとに帰洛を果たしている。法皇に賜源姓降下を願ったが許されず、その後嵯峨野に移り住んで中御門宗家の女子を室に迎えた。後に土御門天皇の皇女を養女にし、持っていた所領の一所を譲ったという。寛喜2年(1230年)7月8日薨去[5]

本朝皇胤紹運録』は僧・法円を北陸宮にあてているが確証はない。

墓所

富山県朝日町宮崎城跡に「北陸宮の御墳墓」と称するものがある。これは1970年(昭和45年)に朝日町が築造したもので、築造当時の町長・中川雍一の著書『海から来た泊町』によれば、埋葬されているのは京都市東山の知恩院の奥にある安井宮墓地の土を納めた甕と大覚寺管長揮毫による『北陸宮 以仁王第一王子 寛喜第二年七月八日薨 御歳六十六』と書かれた陶板とされている。宮内庁治定陵墓にも含まれておらず、実態としては模擬墳墓。

なお、中川は同書で安井宮墓地を北陸宮の墓地としているものの[6]、その十分な根拠は示されていない。

脚注

  1. ^ 読みを「ほくろくのみや」とすることは建国記念事業協会・彰考舎編『訳註大日本史』第2巻本紀49等を典拠とする。
  2. ^ 九条兼実玉葉』寿永2年9月19日条
  3. ^ 吉田経房吉記』寿永2年11月18日条
  4. ^ 九条兼実『玉葉』文治元年11月15日条
  5. ^ 藤原定家明月記』寛喜2年7月11日条
  6. ^ 中川雍一『海から来た泊町』中川雍一、1993年、89-90頁。 

関連項目