宮崎城 (越中国)

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宮崎城
富山県
別名 荒山城、泊城、境城、堺城
城郭構造 山城
築城主 宮崎太郎長康?
築城年 1183年?
主な改修者 長尾氏上杉氏
主な城主 宮崎氏、椎名氏、柿崎景家(長尾氏)、丹羽氏(佐々氏)、土肥政繁(上杉氏)、青山氏(前田氏)
廃城年 1614年以降
遺構 空堀、土塁、石垣、堀切
指定文化財 富山県指定史跡
位置 富山県下新川郡朝日町宮崎
地図
宮崎城の位置(富山県内)
宮崎城
宮崎城

宮崎城(みやざきじょう)は、越中国、現在の富山県下新川郡朝日町に存在した日本の城山城)である。富山県の史跡に指定されている[1]とやま城郭カードNo.1[2][3]。別名・境城

概要[編集]

城山(標高149メートル)の山頂から山腹にかけ堀切・土塁などが残っている。越中国・越後国の国境に位置し、親不知の東側という条件から交通の要地として戦闘が行われてきた。

歴史[編集]

平安時代末期の寿永2年(1183年木曾義仲が越中国に侵攻を試みた。その際、この城の城主であった豪族、宮崎太郎長康と共に、以仁王の皇子北陸宮をこの城に迎え入れ、御所を作り侵攻の足がかりとしたといわれてきたが、学問的根拠はなく当時から城であったという確証はない。

戦国時代椎名康胤上杉氏から叛き武田氏についた際、戦闘の最前線となり、上杉軍が攻略した。その後、織田氏の侵攻で、佐々成政富山城の支城となる。成政は家臣の丹羽権平を入れて守らせていたが、天正12年(1584年)10月、上杉景勝の攻撃を受け、城兵300人が27人にまで討ち減らされる激戦の後、籠城6日目に開城した。

佐々成政には富山の役での降伏後、越中国のうち新川郡のみが安堵されたが、新川郡内にある白鳥城には前田利長の、宮崎城には上杉景勝の城将が、成政に備えるため引き続き置かれた[4]。佐々の肥後国移封と関ヶ原の戦いののち、前田氏が砺波・射水・婦負に加え、新川郡をも治めるようになると境関所が設けられ、宮崎城は廃城となったといわれている[5]

遺構・復元施設[編集]

城跡は「城山公園」として整備されており、空堀、土塁、堀切などが一部残る。

  • 富山県指定史跡「宮崎城跡」石碑
  • 大堀切と石橋
  • 土橋 - 元々空堀があったが戦前に埋め立てられている。
  • 三の丸跡石塁
  • 二の丸跡 - 土塁と石垣が残る。
  • 本丸跡 - 曲輪が展望できる。石垣が残る。
  • 外廓の石垣
  • 八幡宮(旧矢倉台)
  • 明治天皇宮崎御小休所址」石碑
  • 北陸宮御墳墓と「御墳墓」石碑
  • 宮崎城配置図 - 「富山県史跡名勝天然記念物調査会報告」(1921)および「富山県中世城館遺跡総合調査報告書」(2006)による宮崎城縄張り図。

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「宮崎城跡」朝日町公式HP
  2. ^ 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
  3. ^ 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
  4. ^ 『上杉家譜』『大日本史料』『上杉氏年譜』など
  5. ^ 富山市郷土博物館編「秀吉 越中出陣」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]