クィントゥス・セルトリウス
クィントゥス・セルトリウス(Quintus Sertorius、紀元前122年[1] - 紀元前72年)は、古代ローマの政治家、軍人(将軍)。セルトリウス戦争の主要人物である。
生涯
サビニ人の都市ヌルシアで[2]、騎士の家に生まれる[3]。法学、修辞学を学び、紀元前105年のアラウシオの戦いと紀元前102年のアクアエ・セクスティアエの戦いで2度にわたりガリア人と戦う[4]。キンブリ・テウトニ戦争やヒスパニアの討伐において現地通として活躍[5]、軍人としての頭角を現す[2]。
護民官に立候補するが、ルキウス・コルネリウス・スッラの一派から妨害を受け、紀元前90年の同盟市戦争と以後の内乱(内乱の一世紀)ではガイウス・マリウスやルキウス・コルネリウス・キンナらの派閥に所属。ただし紀元前87年のローマ占拠におけるマリウスの恐怖政治やスッラ派粛清には反対している[5][2]。
紀元前83年に法務官(プラエトル)となるが、スッラ軍がローマへ侵攻したことで、海外拠点を求め属州のヒスパニアへ属州総督として赴任する[6][5]。ヒスパニアでもスッラ派の討伐軍に追われたため、紀元前81年に[6]アフリカのマウレタニアに逃れる[5]。マウレタニアで王族内紛に関与したことで勢力を得て[5]、翌年ルシタニア人の招きを受けヒスパニアに凱旋。海軍力により勢力を挽回すると[6]、以後はヒスパニア先住民の要求を理解して現地諸部族の支持を得て、一方で学校を築き子弟にローマ風の教育を行うなど、その軍事的・政治的手腕とローマ文化の普及政策によって、紀元前80年から紀元前77年頃にはイベリア半島のほぼ全域を掌握した[2][3]。この間はキリキアの海賊勢力やマウレタニア、またポントス王のミトリダテス6世とも連携し、ゲリラ戦術を駆使してスッラ派から送り込まれる将軍を次々と破った[5][3]。さらにスッラの独裁から逃れてくる民衆派のローマ人を受け入れて対抗元老院を作り、ローマの正当な政府を継承していることを主張した[2]。セルトリウスの反乱は共和政ローマそのものに対する反乱ではなく、非合法なスッラ政権に対する蜂起というものであり、これにより反スッラ派、マリウス派の広い支持を受けた[4][7]。セルトリウスは常に白い小鹿を傍らに置き、ディアーナの加護があることを示して人心を得ていたという[4][8]。このようにして約10年間、ヒスパニアからローマに対抗し続けた[5]。
しかし紀元前76年、ローマからの増援として、それまでのクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスに加えてグナエウス・ポンペイウスが指揮官として着任[9]すると次第に劣勢となり、紀元前74年に大敗を喫する[4]。連敗を重ねることで求心力を失い、振る舞いに残酷さが増していったという。ついに紀元前72年、配下で重要な支持者であったはずのマルクス・ペルペルナに暗殺された[6]。
セルトリウスの死後、叛乱は急速に瓦解し、ポンペイウスの攻撃により壊滅。ヒスパニアはローマの支配に戻った[2]。
この一連の戦争をセルトリウス戦争(またはセルトリウスの反乱)と呼ぶ。
版図
セルトリウスの名は現在でもスペインの各地に痕跡を残しており、ウエスカ(当時の名称はオスカ)はセルトリウス軍の根拠地として、デニア(当時の名称はディアニウム)はセルトリウス軍の海軍基地だったと知られている。
セルトリウスを扱った書籍
脚注
- ^ 資料により紀元前123年、あるいは不明とされる場合があるが、少なくとも紀元前122年付近であると推定される。
- ^ a b c d e f 『岩波 世界人名大辞典 ア-テ』 岩波書店、2013年、1481頁「セルトリウス」項。
- ^ a b c 『日本大百科全書 13』 小学館、1987年、685頁「セルトリウス」項(土井正興著)。
- ^ a b c d 『ブリタニカ国際大百科事典 3 小項目事典』 TBSブリタニカ、1991年第2版改訂版、1033頁「セルトリウス」項。
- ^ a b c d e f g 『世界大百科事典 16』 平凡社、2007年改訂新版、17頁「セルトリウス」項(栗田伸子著)。
- ^ a b c d ダイアナ・バウダー編、小田謙爾・兼利琢也・萩原英二・長谷川岳男訳 『古代ローマ人名事典』 原書房、1994年、191頁「セルトリウス」項。
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典 20』 TBSブリタニカ、1991年第2版改訂、741ページ「ローマ史」項。
- ^ ディアーナはギリシャ神話のアルテミスに相当し、アルテミスの聖獣が鹿である。
- ^ 『世界伝記大事典 10』 ほるぷ出版、1981年、270頁「ポンペイウス」項。