ウィットビー教会会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。際野 (会話 | 投稿記録) による 2019年8月28日 (水) 04:47個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ウィットビー教会会議(英語:Synod of Whitby)は、664年イングランドで開かれたキリスト教教会会議

概要

イングランドのキリスト教は、当初アイルランドから伝わったケルト系キリスト教の影響が大きかった。アイルランドのキリスト教は、ローマのベネディクトゥス会則とは大きく離れていたほか、修道制を基礎としておりカトリックのような司教の管轄下におかれる教区が設けられていなかった。こうした様々な差異が、キリスト教の浸透とともに顕在化していき、両勢力の対立が強まっていた。こうした状況を収拾するため、664年、ノーサンブリア王のオズウィによってウィットビー教会会議が召集された。

イースト・サクソン司教チャドやリンディスファーン司教コルマンはケルト側で、ドーチェスター司教アギルベルフトやリポン司教ウィルフリッドはローマ側で論陣を張った。直接のテーマはイースターの期日算定をめぐるものであったが、両勢力のどちらが主導権を握るかという点で重要な意味をもった。結局、ローマ側の主張が通ったことで、ノーサンブリアにおいてローマ・カトリックが優位にたった。この後、徐々にローマ・カトリックがイングランド各地に影響力を拡大していった。

脚注

参考文献

  • 青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史 1』 山川出版社、1991年。ISBN 4634460106

関連項目