楊浩
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楊浩 秦王 | |
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隋 | |
第5代皇帝 | |
王朝 | 隋 |
在位期間 |
大業14年3月11日 - 大業14年9月29日 (618年4月11日 - 618年10月23日) |
姓・諱 | 楊浩 |
生年 | ? |
没年 |
大業14年9月29日 (618年10月23日) |
父 | 秦王楊俊 |
母 | 崔氏 |
年号 | 大業(沿用) |
楊 浩(よう こう、? - 618年10月23日)は、隋の皇帝。隋の文帝の三男の秦王楊俊の子。
生涯
開皇20年6月25日(600年8月4日)に父の秦王楊俊は没した。大業2年9月14日(606年10月20日)、隋の煬帝が即位すると、楊浩は秦王に立てられて楊俊の後を嗣いだ[1]。
大業14年3月11日(618年4月11日)、煬帝が江都において司馬徳戡らによって殺害されると、楊浩は皇帝に立てられた。しかし実権は宇文化及が握っていた[2]。
同年9月29日(10月23日)、宇文化及は楊浩に迫って帝位を禅譲させて許を建国した。廃帝となった楊浩は宇文化及の命によって毒殺された[3]。
脚注
- ^ 魏徴 (中国語). 『隋書』巻三・帝紀第三・煬帝上. "九月乙丑,立秦孝王俊子浩為秦王。"
- ^ 魏徴 (中国語). 『隋書』巻五・帝紀第五・恭帝. "三月景(丙)辰,右屯衛將軍宇文化及殺太上皇於江都宮,右禦衛將軍獨孤盛死之。齊王暕,趙王杲,燕王倓,光祿大夫、開府儀同三司、行右翊衛大將軍宇文協,金紫光祿大夫、内史侍郎虞世基,銀青光祿大夫、御史大夫裴蘊,通議大夫、行給事郎許善心皆遇害。化及立秦王浩為帝,自稱大丞相,朝士文武皆受其官爵。光祿大夫、宿公麥才,折衝郎將、朝請大夫沈光,同謀討賊,夜襲化及營,反為所害。"
- ^ 劉昫 (中国語). 『舊唐書』巻一・本紀第一・高祖. "辛未,追諡隋太上皇為煬帝。宇文化及至魏州,鴆殺秦王浩,僭稱天子,國號許。"