木本氏房
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木本 氏房 きもと うじふさ | |
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生誕 |
1884年9月2日 日本、三重県 |
死没 | 1968年7月3日(83歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905 - 1933 |
最終階級 | 陸軍工兵大佐 |
除隊後 | 満洲航空株式会社技術顧問、大日本航空株式会社技術顧問、国際航業株式会社顧問 |
木本 氏房(きもと うじふさ、1884年(明治17年)9月2日 – 1968年(昭和43年)7月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍工兵大佐。日本における航空測量の先駆者として知られる。
経歴
[編集]三重県宇治山田市に生まれた。陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月30日に陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月21日に工兵少尉に任ぜられる[1]。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進[2]後、陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業[3]し、1910年(明治43年)12月22日に陸地測量部班員に補せられる[4]。1915年(大正4年)4月9日に工兵大尉に昇進した[5]。
その後、陸軍工兵学校教官の兼補を経て、1921年(大正10年)2月4日に陸地測量部班長に補せられた[6]後、同年12月1日に工兵少佐に昇進した[7]。さらに、陸軍航空学校教官兼補、下志津陸軍飛行学校教官兼補を経て、1925年(大正14年)7月10日、陸地測量部御用掛を命ぜられる[8]。1926年(大正15年)8月6日工兵中佐に[9]、1931年(昭和6年)8月1日に工兵大佐に昇進[10]し、1933年(昭和8年)4月20日予備役に編入された[11]。
その後、満洲航空株式会社技術顧問となり、大日本航空株式会社技術顧問、国際航業株式会社顧問を歴任した。
栄典
[編集]- 位階
- 1905年(明治38年)5月26日 - 正八位[12]
- 1908年(明治41年)3月20日 - 従七位[13]
- 1913年(大正2年)5月20日 - 正七位[14]
- 1918年(大正7年)7月10日 - 従六位[15]
- 1923年(大正12年)11月30日 - 正六位[16]
- 1928年(昭和3年)12月28日 - 従五位[17]
- 1933年(昭和8年)5月13日 - 正五位[18]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等瑞宝章・明治三十七八年従軍記章[19]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲五等瑞宝章[20]
- 1919年(大正8年)10月24日 - 勲四等瑞宝章[21]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日小綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[22]
- 1927年(昭和2年)8月1日 - 勲三等瑞宝章[23]
- 1931年(昭和6年)7月 - 旭日中綬章[24]
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第6540号、明治38年4月22日。
- ^ 『官報』第7347号、明治40年12月23日。
- ^ 『官報』第7937号、明治42年12月7日。
- ^ 『官報』第8253号、明治43年12月23日。
- ^ 『官報』第804号、大正4年4月10日。
- ^ 『官報』第2552号、大正10年2月5日。
- ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ 『官報』第3865号、大正14年7月11日。
- ^ 『官報』第4187号、大正15年8月7日。
- ^ 『官報』第1378号、昭和6年8月3日。
- ^ 『官報』第1890号、昭和8年4月21日。
- ^ 『官報』第6572号、明治38年5月30日。
- ^ 『官報』第7418号、明治41年3月23日。
- ^ 『官報』第241号、大正2年5月21日。
- ^ 『官報』第1782号、大正7年7月11日。
- ^ 『官報』第3386号、大正12年12月5日。
- ^ 『官報』第625号、昭和4年1月31日。
- ^ 『官報』第1908号、昭和8年5月15日。
- ^ 『官報』第7030号、明治39年12月4日。
- ^ 『官報』第539号、大正3年5月18日。
- ^ 『官報』第2169号、大正8年10月27日。
- ^ 『官報』第2610号号外、大正10年6月24日。
- ^ 『官報』第240号、昭和2年10月14日。
- ^ 官報不掲載;「叙勲裁可書・昭和六年・叙勲巻三・内国人三(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A10113091900
- ^ 『官報』第8017号、明治43年3月17日。
- ^ 『官報』第2822号附録、昭和11年6月1日。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「木本氏房氏の急逝を悼む」『森林航測』第70巻、日本森林技術協会、1968年、22頁。