益尾吉太郎
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益尾 吉太郎[1][2](ますお きちたろう、1868年2月29日(明治元年2月7日)[3] - 1934年(昭和9年)3月21日[4])は、日本の商人[3]、実業家、政治家、鳥取県多額納税者[2][5][6]、鳥取県の大地主[7]。米子倉庫監査役[1][2]。米子銀行取締役[6][8]。族籍は鳥取県平民[8]。
人物
伯耆国米子道笑町(現・鳥取県米子市道笑町)生まれ[2]。益尾直蔵の長男[6]。1883年、家督を相続[6]、6代の主となる[2]。屋号を唐櫛屋と称す[2]。商業を営む[3]。
製油事業を興し、巨資を投じて新式の器械を装置し、多量の産額を収める[1]。益尾製油所の名声は遠近に轟く[1]。業界の重鎮として推重される[1]。又各方面の事業に関係する[1]。
1907年、選ばれて米子町会議員となる[4]。1922年、米子町功労者旌表規定により功労章を贈られ、その功労を表彰される[4]。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する[3]。「伯耆国地価10000円以上所有者」である[7]。
『商工資産信用録 第34回 鳥取県ほか』によると、益尾吉太郎(調査年月・1932年7月)は「正身身代・Q、信用程度・B、職業・油」である[9]。住所は米子市道笑町1丁目[4][6]。
家族・親族
- 益尾家
- 祖父・平蔵[2] - 益尾家はもともと微々として振るわなかったが、平蔵は資財を増殖する[2]。
- 父・直蔵[2](1842年 - ?、商業)[10] - 直蔵に及び益々隆昌を来す[2]。1890年刊行の『帝国議会議員選挙者名鑑』によると直接国税総納額は「1558円16銭9厘」[10]。
- 妻・いせの(1871年 - ?、鳥取、益尾治平の長女)[6][8]
- 長男・健太郎[6](1891年 - ?、鳥取県多額納税者、農業)[11] - 1934年、家督を相続する[11]。農業を営む[11]。
- 五男[6]
- 六男[8]
- 七男[8]
- 長女[8]
- 三女(1899年 - ?、鳥取県多額納税者、酒造業・益尾美太郎の妻、益尾喜平の母)[11]
- 四女[6]
- 孫[6]
脚注
- ^ a b c d e f 『陰陽八郡郡勢一斑』139頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『島根鳥取名士列伝 中』106 - 108頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月28日閲覧。
- ^ a b c d 『貴族院多額納税者名鑑』428頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月28日閲覧。
- ^ a b c d 『米子自治史』925、939頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月2日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第31版』付録 全国多額納税者 鳥取県55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第9版』マ39頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月28日閲覧。
- ^ a b 『国民日用便覧 明治44年刊』鳥取島根県財産家人名録 伯耆国之部は1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第6版』ま92頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月28日閲覧。
- ^ 『商工資産信用録 第34回 鳥取県ほか』鳥取県ま之部17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月10日閲覧。
- ^ a b 『帝国議会議員選挙者名鑑』第二編 貴族院多額納税者54頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月17日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第14版 下』マ39頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月28日閲覧。
参考文献
- 後藤本馬編『帝国議会議員選挙者名鑑』金松堂、1890年。
- 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 中』博進館、1903 - 1906年。
- 多納佐三郎編『国民日用便覧 明治44年刊』報光社、1910、1911年。
- 﨏雨村編『陰陽八郡郡勢一斑』陰陽八郡時報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
- 交詢社編『日本紳士録 第31版』交詢社、1927年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 『商工資産信用録 第34回 鳥取県ほか』商業興信所、1933年。
- 米子市編『米子自治史』米子市、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。