コンテンツにスキップ

ヨハン (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年4月7日 (金) 10:32; Jun324 (会話 | 投稿記録) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ヨハン
Johann
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
在位 1252年 - 1277年

出生 1242年
死去 1277年12月13日
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領、リューネブルク、聖ミカエル教会
配偶者 ルイトガルト・フォン・ホルシュタイン
子女 オットー2世
マティルデ
エリーザベト
ヘレネ
アグネス
家名 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
父親 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世
母親 マティルデ・フォン・ブランデンブルク
テンプレートを表示

ヨハン(Johann, 1242年 - 1277年12月13日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(在位:1252年 - 1269年)、リューネブルク(在位:1269年 - 1277年)。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト2世の娘マティルデの次男で、ヴォルフェンビュッテルアルブレヒト1世の弟。

生涯

[編集]

1252年の父の死後、兄のアルブレヒト1世と共に統治していたが、1267年に所領分割を要求、1269年に分割が行われ、ヨハンは北部のリューネブルクツェレハノーファーを、アルブレヒト1世は南部のブラウンシュヴァイクアインベックグルーベンハーゲンカレンベルクヴォルフェンビュッテルハルツ山地ゲッティンゲンを領有する事になった。

1277年死去。遺体はリューネブルクの聖ミカエル教会に埋葬された。

子女

[編集]

1265年ホルシュタイン伯ゲルハルト1世の娘ルイトガルトと結婚、5人の子を儲けた。

  • オットー2世(1266年 - 1330年)
  • マティルデ(? - 1301年) - ヴェルレ侯ハインリヒ1世と結婚。
  • エリーザベト(? - 1298年) - オルデンブルク伯ヨハン2世と結婚。
  • ヘレネ(? - ?) - ヴェルニゲローデ伯コンラート3世と結婚。
  • アグネス(? - 1314年) - ハドメルスレーベン伯ヴェルナー1世と結婚。

他に庶子ハインリヒ(? - 1324年)がいる。

参考文献

[編集]
  • Walter Deeters: Johann. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 10, Duncker & Humblot, Berlin 1974, ISBN 3-428-00191-5, S. 477 f. (電子テキスト版).
  • Karl Janicke (1881). "Johann, Herzog von Braunschweig". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 14. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 177.
爵位・家督
先代
オットー1世
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
1252年 - 1269年
アルブレヒト1世と共治)
次代
リューネブルク侯領
ヴォルフェンビュッテル侯領
に分割
先代
新設
リューネブルク
1269年 - 1277年
次代
オットー2世