堀直皓
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堀 直皓(ほり なおてる、宝暦5年9月7日(1755年10月12日) - 文化11年7月13日(1814年8月17日))は、江戸時代後期の大名。信濃国須坂藩の第9代藩主。信濃須坂堀家9代。筑後国三池藩主・立花長煕の七男。母は第5代藩主・堀直英の娘。正室は細川興晴の娘、継室は黒田直亨の娘。子は堀直興(長男)、堀直格(三男)、娘(立花種善正室)、娘(本庄道貫継室)、娘(渡辺某室)。幼名は信丸。通称は内蔵。初名は立花種幸。官位は従五位下、内蔵頭。宝暦9年(1759年)9月7日生まれともされる。
天明4年(1784年)3月4日、第8代藩主・直郷が嗣子なく死去したため、養子となって跡を継ぐ。同年3月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年5月、駿府城加番を命じられる。天明5年12月18日、従五位下・内蔵頭に叙任する。天明8年、服橋御門番を命じられる。寛政元年、大坂加番を命じられる。寛政4年(1792年)10月9日、大番頭に就任する。在任中、二条城在番などを務めた。享和3年(1803年)1月21日、病気を理由に辞職する。文化元年(1804年)3月24日、奏者番に就任する。文化6年11月9日、病気を理由に辞職する。藩政を見ると天明年間に石門心学講舎・教倫舎を、文化年間には藩校・立成館を創立している。
文化10年(1813年)5月24日隠居し、長男の直興に家督を譲る。文化11年(1814年)に没した。
系譜
[編集]父母
正室、継室
側室
- 芳野
子女
参考文献
[編集]- 『長野県史 通史編 第6巻 近世3』