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勝尾城

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勝尾城
佐賀県
別名 三ケ山城、三上城、筑紫城三上山
勝山城、筑紫城、山浦城
城郭構造 山城
築城主 渋川義俊
または渋川義基
築城年 応永30年(1423年
または延徳3年(1491年
主な城主 渋川氏筑紫氏
廃城年 天正14年(1586年
指定文化財 国の史跡
勝尾城筑紫氏遺跡の一部)
位置 北緯33度24分07.4秒 東経130度27分54.2秒 / 北緯33.402056度 東経130.465056度 / 33.402056; 130.465056座標: 北緯33度24分07.4秒 東経130度27分54.2秒 / 北緯33.402056度 東経130.465056度 / 33.402056; 130.465056
地図
勝尾城の位置(佐賀県内)
勝尾城
勝尾城
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勝尾城(かつのおじょう)は、佐賀県鳥栖市河内町に存在した山城。本城の勝尾城、鬼ヶ城、高取城、葛籠城、鏡城、若山砦等の支城群と当主の居館跡、家臣団屋敷跡、寺社跡、町屋跡で構成されたエリアは「勝尾城筑紫氏遺跡」として国の史跡に指定されている[1]

概要

鳥栖市標高501.3mの城山山頂に位置する。安良川とその支流の四阿屋川の谷に挟まれた要害だった。支城鏡城葛籠城鷹取城がある。

応永30年(1423年)に渋川義俊が勝尾城を築いたと『肥前国史』にあるが、『歴代鎮西要略』では延徳3年(1491年)に渋川義基が築いたとされる。当城は九州の南北・東西の交通の十字路にあたるため、長く渋川氏少弐氏との争いの舞台となった。やがて少弐氏は大内氏の傘下に入って助力を得て、永正18年(1521年)には少弐氏一族の筑紫満門が当城の城主となっている。

天正14年(1586年)、南九州を席巻した島津氏筑前国への侵攻を開始した。その前々年に筑紫氏は島津氏と連携していたにもかかわらず、島津氏侵攻の直前になって大友氏へと降ったため、筑前国の要衝である勝尾城は島津軍の格好の標的となった。勝尾城は島津忠長の攻撃を受けて同年7月6日に麓の総構えが破られ、7月11日に落城する。城主の筑紫広門は降伏して、筑後の大善寺に一時幽閉されるが、同年8月に挙兵して勝尾城を奪還した。

戦後、豊臣秀吉によって筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられたため、勝尾城は廃城となった。

平成元年(1988年)度の鳥栖市教育委員会の圃場整備事業に伴う発掘調査によって、戦国時代の町屋跡が発見され、平成7年度(1995年)から16年度にかけて遺跡確認調査を実施。その結果、勝尾城や周辺の支城や、城主の館跡、寺社跡、空堀、石垣等がほぼ当時のままの状態で残存していることが判明した。それらの調査結果を踏まえ、平成18年(2006年)に国の史跡に指定された。

構造

勝尾城は、標高501.3mの城山山頂に位置し、遺構の規模は東西約400m、南北約600mの領域に及ぶ。山頂部を主郭とし、それを中心に城域全体に石垣が構築されており、特に東側の伝・二の丸跡には連続する小規模な石材を積み上げた登り石垣と、内枡形の虎口が築かれている。

また、安良川とその支流の四阿屋川と周辺の山を利用して、谷戸部に家臣団屋敷や寺社、町屋等の城下町を造り、それぞれを区分するように長大な空堀と土塁で仕切り、総構えの備えとした。また、周囲の山には城や砦を築いてその稜線を防衛ラインとしている。これらの構造は、一乗谷朝倉氏遺跡と同様なもので、国の史跡指定にあたってもその重要性を考慮された。そして遺跡として指定された面積も、一乗谷朝倉氏遺跡に匹敵する大きさとなっている。

発掘調査によって輸入陶磁器、国内産陶器、瓦器、土師器、瓦、中国銭等の遺物が多量に出土している。

近隣には筑紫晴門川上左京の墓所が存在している。

脚注

  1. ^ 『勝尾城筑紫氏遺跡』鳥栖市HP

参考文献

関連項目