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井陘の戦い

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井陘の戦い
戦争楚漢戦争
年月日紀元前204年10月
場所井陘
結果:漢軍の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
韓信
張耳
曹参
陳余
戦力
30000 200000
損害
不明 不明
楚漢戦争

井陘の戦い(せいけいのたたかい)とは、中国楚漢戦争の中で軍と軍とが井陘(現在の河北省石家荘市井陘県)にて激突した戦い。韓信と常山王張耳ら率いる漢軍が背水の陣という独創的な戦術を使って趙軍を打ち破った。

事前の経緯

劉邦軍の別働軍として進発した韓信軍は、まず魏(魏豹)を降し、代(代の夏説)を降して趙(趙歇)へとやってきていた。趙を攻めるに先立ち、兵力不足の劉邦本軍は韓信に対して兵を送るように命令し、韓信はこれに答えて兵を送ったために韓信軍の兵力は少なく、三万程度しかなかった。

一方、趙は趙歇と宰相の成安君陳余が二十万と号した大軍を派遣して韓信軍を撃退しようとしていた。趙に李左車と言う将軍がおり、陳余に対し、太行山脈の合間を通る「井陘口」という馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を利用して、ここを韓信が通っている間に出口を本隊が塞ぎ、別働隊を使って韓信軍の後方の食料部隊を襲い、さらに挟撃する作戦を提案した。しかし陳余は「小数相手に大軍が策を弄しては、趙の兵は弱いと諸侯に侮られる」と正攻法にこだわりこれを却下した。

陳余は項羽軍に在籍して章邯を説得して項羽に降伏させるなど弁舌での功績は挙げていたが、自ら軍を率いた経験は少なかった。ただ外交面で考えれば、漢と楚、当時の二大強国のどちらとも敵対的だった趙としては、攻めさせない必要が高かったので妥当な判断でもある。

韓信は井陘口の手前で宿営して趙軍の内部を探らせていた。用心深く無理な戦いをしない韓信は、もしここで攻められればひとたまりもないことを察していたのであるが、李左車の策が採用されなかったことを大喜びし、安心して井陘の隘路を通った。

そして、傅寛張蒼に命じて二千の兵を分け、これに漢の旗を持たせて、裏側から趙の本城を襲うように指示した。また兵士に簡単な食事をさせた後に、諸将に対して「今日は趙軍を撃ち破ってからみなで食事にしよう」と言ったが、諸将は誰も本気にしなかった。

背水の陣

井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子』天官編に「背水陳為絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった。

韓信は初め迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった。

趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり敗れた。

陳余は張蒼によって捕虜となり、泜水で処刑され、逃亡した趙歇も襄国(現在の河北省邢台市信都区)で捕らえられて処刑された。また李左車は韓信によって捕らわれるが、韓信は上座を用意して李左車を先生と賞し、燕を下す策を献じてもらった。そして李左車の策に従いを労せず下すことに成功した。ちなみに、韓信に尋ねられた李左車は、初め自分の考えを述べることに躊躇したが、そのときに彼が放った「敗軍の将、兵を語らず」(『史記』淮陰侯列伝)という言葉は有名である。

後にこの布陣でなぜ勝てたのかと聞かれた韓信は、「私は兵法書に書いてある通りにしただけだ。即ち『兵は死地において初めて生きる(「之れを往く所無きに投ずれば、諸・劌の勇なり(兵士たちをどこにも行き場のない窮地に置けば、おのずと専諸曹沬(曹劌)のように勇戦力闘する)」『孫子』九地篇)』」と答えている。これが背水の陣である。

現在でも「背水の陣」は、退路を断ち(あるいは絶たれ)決死の覚悟を持って事にあたるという意味の故事成語となっているが、韓信はそれだけでなくわざと自軍を侮らせて敵軍を城の外へ誘い出し(調虎離山)、背水の陣で負けない一方、空にさせた城を落とし、敵の動揺を突いて襲撃し勝機を逃さない、と最終的に勝つための方策も行っているのである。

城塞に籠った場合、兵力が少なくても突破されないし、瞬時の相対する兵力は互角以上である。これに城壁の優位性と兵の死力が加われば、兵力差が絶大でも相当戦うことができる。しかし相手が自軍を侮らず普通に攻め続ければさすがにいつか落ちるから、相手が嫌気して引き返すことも当初から意中にあったのであろう。

これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち情報収集しているところにも見ることができる。韓信が希代の名将と言われるゆえんである。

日本への影響

増田欣『「太平記」の比較文学的研究』によれば、背水の陣の故事は14世紀まで日本では無名であったが、文学作品として初めて軍記物太平記』(14世紀末–15世紀初頭)が物語に取り入れたという[1]。『太平記』巻19、青野原の戦い1338年)で、後醍醐天皇北畠顕家に足利方が負けると、婆娑羅大名として名高い佐々木道誉らが足利方へ援軍に来たが、そのとき道誉の進言で黒地川(黒血川)を背にして背水の陣を敷いたのが、日本の戦史上における初見である[1]。ただし、これは文学作品的な誇張表現であって、黒地川を背に陣取ったのは地形的な必然で、歴史的事実としては「背水の陣」という故事を意識して敷くほど足利方が劣勢にあったわけではないようである[2]

その後、伊勢宗瑞(北条早雲)吉川元春を始めとする戦国武将が『太平記』の研究に励み、同書が戦国時代の戦術に影響を与えたのは周知の通りである。

脚注

出典

  1. ^ a b 長谷川 1996, p. 522.
  2. ^ 長谷川 1996, p. 521.

参考文献

  • 長谷川端 編『太平記 2』小学館〈新編日本古典文学全集 55〉、1996年3月20日。ISBN 978-4096580554 

関連項目

  • ラスト・スタンド英語版 - 英語の慣用句で、最後の砦、最後の抵抗、そして「背水の陣」とも訳される。
  • 孫子 (書物) - 軍争第七に「圍師必闕、窮寇勿迫」とあり、「包囲には必ず逃げ道を作り、死にもの狂いの敵には近寄るな」と教えている。