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メルボルン (軽巡洋艦)

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艦歴
発注
起工 1911年4月4日
進水 1912年5月30日
就役 1913年1月18日
退役
その後 1928年にスクラップとして売却
除籍
性能諸元
排水量 5,400トン
全長 456 ft 8 3/8 in(全長:139.6m、水線長:131.1m)
全幅 49 ft 10 in(14.9m)
吃水 19 ft 7 in(4.9m)
機関 ヤーロー式石炭・重油混焼水管缶12基
パーソンズ直結タービン4基4軸推進
最大出力 25,000hp
航続性能 16ノット/4,500海里
燃料 石炭:1,240トン、重油:260トン
最大速力 25.5ノット
乗員 475~485名
兵装 Mark XII 15.2cm(45口径)単装速射砲8基8門、
7.62cm(40口径)単装砲1基1門、
3ポンド砲単装4基4門、
マキシム機銃2基、
ルイス機銃8基、
21インチ水中魚雷発射管単装2基2門
装甲 舷側:76mm(水線面主装甲)
甲板:10~38mm(水平面)
司令塔:102mm
モットー Viries Acquiret Eundo

メルボルン (HMAS Melbourne) は、オーストラリア海軍軽巡洋艦チャタム級の一隻。艦名はメルボルンに因む。

艦歴

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「メルボルン」は1911年4月4日にバーケンヘッドキャメル・レアード社で起工し、1912年5月30日にF・ブラウンド夫人によって進水、1913年1月18日に就役した。

第一次世界大戦が勃発すると、1914年8月から「メルボルン」は太平洋のドイツ領攻略作戦に参加した。ルイジアード諸島ロッセル島から出航した「メルボルン」は、8月20日に巡洋戦艦オーストラリア」と合流してヌーメアに向かった。8月21日にヌーメアに到着し、そこで攻略部隊を載せた輸送船2隻とその護衛の巡洋艦3隻、およびフランス海軍装甲巡洋艦モンカルム」と合流した。これらで構成された部隊は8月23日にヌーメアを出航し、8月26日にスバに到着した。スバからは8月27日に出航し、8月30日にサモアアピア沖に到着した。ドイツ側の抵抗はなくサモアは占領された。「メルボルン」と「オーストラリア」、「モンカルム」は8月31日にスバへ向けて出発した。9月4日、「メルボルン」はスバを離れナウルの無線基地の破壊へ向かった。9月9日、ナウル到着。「メルボルン」から25人が上陸し、無線基地の破壊に向かったが、無線基地はすでに破壊されていた。

9月20日、シドニーに帰投。

次いで、「メルボルン」は兵員輸送船団の護衛に従事した。11月9日には共に船団を護衛していた軽巡洋艦「シドニー」が緊急電報を受けてココス諸島へ向かい、ドイツの防護巡洋艦「エムデン」を撃破した。船団と分かれた「メルボルン」は12月5日にジブラルタルに到着した。

1918年に撮影された「メルボルン」

その後は北アメリカおよび西インド諸島で1914年から1916年まで活動し、続いて北海グランド・フリートに参加する。「メルボルン」は第一次世界大戦の終了まで北海で活動した。

「メルボルン」はシドニーで1919年8月5日に退役し、1920年4月14日まで保管される。再就役後1924年9月29日から1925年10月8日まで再び予備役として保管された。1928年2月9日にシドニーを出航しイギリスに向かい、4月18日にポーツマスに到着する。4月23日に退役しスコットランドロサイスのアロア・シップビルディング社に1928年12月に売却、1929年に解体された。

関連項目

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外部リンク

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