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毛利高誠

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毛利高誠
時代 江戸時代後期
生誕 安永5年(1776年
死没 文政12年7月26日1829年8月25日
改名 高聴、高誠
別名 岩之助(通称)
戒名 寛洪院
官位 従五位下美濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
豊後佐伯藩
氏族 毛利氏
父母 毛利高標:田中氏
兄弟 高誠小笠原政雍織田長裕
正室喜連川恵氏の娘
継室京極高文の娘
高翰
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毛利 高誠(もうり たかのぶ)は、江戸時代後期の大名。通称は岩之助。豊後国佐伯藩の第9代藩主官位従五位下美濃守

略歴

8代藩主・毛利高標の長男として誕生。初名は高聴。

寛政元年(1789年)9月11日、父・高標の嫡子となる。寛政4年(1792年)7月26日、11代将軍徳川家斉にお目見えする。同年12月16日、従五位下美濃守に叙任する。享和元年(1801年)9月、父の死去により家督を継ぐ。父と同じく財政再建を主とした藩政改革に乗り出し、糾府・米金府・勘定府の三府を開設した。しかし、文化8年(1811年)に岡藩で起こった一揆が佐伯藩にも波及して、翌年に大規模な百姓一揆が起こる。家老の戸倉織部の尽力で何とか対処したが、同年5月に一揆が沈静化するのを見届けてから、長男・高翰に家督を譲って隠居した。その後は父と同じく、文教奨励政策に尽力した。

文政12年(1829年)に54歳で死去した。法号は寛洪院。

系譜

父母

正室、継室

子女