箕原勉
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箕原 勉(みのはら つとむ[1]、1882年(明治15年)8月28日[1] – 1964年(昭和39年)12月15日[2])は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造兵中将。工学博士[3]。
経歴
兵庫県多紀郡篠山町(現在の丹波篠山市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業[1]。海軍造兵中技士となり、1933年(昭和8年)に海軍造兵中将に至った[4]。その間、舞鶴海軍工廠部員、呉海軍工廠部員、造兵監督官、造兵廠研究部員・海軍大学校教官、航空機試験所所員、海軍技術本部部員・艦政本部部員、海軍技術研究所工作課長、同電気研究部長・艦政本部会議議員、特許局技師、海軍技術研究所所長・海軍技術会議議員、軍令部出仕を歴任した[4]。
1936年(昭和11年)に予備役に編入された後は日本放送協会技術研究所次長となり、1940年(昭和15年)からは所長を務めた[5]。
著書
- 『ラヂオとは斯んなものさ』(電気之友社、1925年)
脚注
- ^ a b c 大日本博士録 工学博士pp.198-199 1930.
- ^ 日本海軍将官辞典 2000.
- ^ 『官報』第1944号、大正8年1月28日。
- ^ a b 人事興信録 1939.
- ^ 人事興信録 1941.
参考文献
- 井関九郎『大日本博士録 第五巻』発展社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 下巻』人事興信所、1937年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下巻』人事興信所、1941年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。