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白米甕砲台

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白米甕砲台
Baimiwong Paotai
中華民国の旗 台湾基隆市中山区光華路37巷
指揮所付近から見下ろした砲座
白米甕砲台の位置(台湾内)
白米甕砲台
台湾
座標北緯25度09分19秒 東経121度44分35秒 / 北緯25.15535度 東経121.74300度 / 25.15535; 121.74300座標: 北緯25度09分19秒 東経121度44分35秒 / 北緯25.15535度 東経121.74300度 / 25.15535; 121.74300
種類沿岸砲
施設情報
所有者 大日本帝国陸軍 基隆要塞重砲兵連隊
管理者基隆市文化局
一般公開年中無休・無料公開
現況廃止
歴史
建設着工1900年(明治33年)
竣工1902年(明治35年)[1]
建築資材コンクリート
解体1945年
使用戦争日露戦争第二次世界大戦

白米甕砲台(はくべいが ほうだい / はくまいおう ほうだい)は、台湾基隆市中山区光華路37巷にある砲台基隆港を防御するために港口の左岸(南西)側の高台に設置された沿岸要塞である。日本国陸軍省の公文書では「白米甕砲台」、1921年から28年に陸地測量部が製作した二万五千分の一地図[2][3]には「白米砲台」と記されている。この砲台の日本統治期の読み方は、この記事の『白米甕の読み方について』を参照。

当地は基隆市定古蹟に登録されており、地上部分は見学者に無料開放されている。4月から11月の第四土曜日9時から12時には、基隆市文化局による現地案内が行われている[4]。すぐ東隣に萬人頭砲台跡が、西隣には台湾電力協和火力発電所ある。

歴史

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1945年に米国陸軍が作成した基隆の地図

この地に砦を最初に築いたのは、17世紀に台湾島を占領していたスペインオランダだとされている。光華古砲台や荷蘭城(オランダ城)などと呼ばれていたようだ。朝時代末期の清仏戦争時(1883年-1885年)には沿岸砲を設置するための砲台として使われ始めた[5]。現在見られる遺構は、1900年(明治33年)に大日本帝国陸軍日露戦争に備えるために基隆要塞として整備したものである[6]。主装備として真北方向に一列に並んだ砲座(標高約70m)に射程約8800m[7]の安式8吋加農砲(アームストロング式8インチ カノン砲)[8]が4門、砲台地下に弾薬庫と戦時指揮所、西側の高台(標高129m)に観測所と指揮所、東側の高台(標高103m)に観測所などがあった。現在、カノン砲は撤去され砲台のコンクリート構造物の一部が残る。

白米甕の読み方について

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「白米甕」の日本語読みが記された文献は発見できなかったが、標準的な音読の場合は「はくまいおう」「はくべいおう」、1945年の米軍作成の美軍繪製台灣城市地圖[3]によれば「はくべいがおう」と推測される。

交通機関

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  • 基隆駅から基隆市公車[9](バス)301路に乗車し太白荘站(バス停)下車、徒歩約500m

脚注

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  1. ^ 明治35年12月11日付 陸軍省 軍事機密受第403号 「基隆要塞白米甕堡塁竣功図書別紙目録之通進達件也」 国立公文書館
  2. ^ 国立国会図書館 台湾の地図(日本統治期)
  3. ^ a b 台湾 中央研究院 臺灣百年歷史地圖 美軍繪製台灣城市地圖
  4. ^ 現地 砲台地下弾薬庫入口の看板による
  5. ^ 国家文化資産網 白米甕砲台(中文)
  6. ^ 明治33年8月1日付 陸軍省 軍事機密文第247号 「基隆甕堡白米甕堡塁建築ノ件」 国立公文書館
  7. ^ 現地 「砲座区」看板の『砲身口径203.5mm、全長5.65m、最大射程可達8.8km(堅鉄弾)』より
  8. ^ 昭和8年10月27日付 陸軍省 基要砲89号 「安式8吋加農砲床抗堪試験射撃用弾薬支給相成度件申請」 国立公文書館
  9. ^ 基隆市公共汽車管理處

関連項目

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基隆五大砲台

外部リンク

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