石河積翠
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石河 積翠(いしこ せきすい、1738年(元文3年) - 1803年8月20日(享和3年7月4日))は、江戸時代の俳人、旗本。名は貞義(さだのり)、通称は右膳。別号に積翠園・積翠庵・雨簾。
来歴
幕府直参の武士で俸禄は4500石であった[1]。石河貞貴の次男で、石河正章の孫に当たる[2]。先妻は高木正信の長女、後妻は高木正信の次女[2]。子に貞常、娘(石河貞通の妻)、養子に石河貞通(伊東長丘の五男)[2]。
1760年(宝暦10年)家督を継承[2]。1762年(宝暦12年)より火事場見廻、1764年(明和元年)より定火消を勤め[2]、神田小川町に住んだ[1]。公務の間に俳諧をたしなみ、東柳窓燕志・二世桃隣(切部桃隣)に師事した[1]。1771年(明和8年)に職務を辞し、1785年(天明5年)に致仕[2]。
1776年(安永5年)12月、二世桃隣が死去した際、太白堂の名跡と点印を保管し、1781年(天明元年)三世太白堂に伝えた[1]。松尾芭蕉を尊崇し、芭蕉の句の注釈や蕉風の俳論を手がけた[1]。積翠は、宝井其角『雑談集』、向井去来『去来抄』、各務支考『葛の松原』を俳論の基本に据え、『雑談集評』『去来抄評』『葛松原評』の俳諧三部評を著した[1]。