湖県
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中国地名の変遷 | |
建置 | 戦国時代 |
使用状況 | 北魏に改称 |
秦 | 胡県 |
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前漢 | 湖県 |
新 | 湖県 |
後漢 | 湖県 |
三国 | 湖県 |
西晋 | 湖県 |
東晋十六国 | 湖県 湖城県(北魏) |
湖県(こ-けん)は、古代の中国に置かれた県の一つである。現在の河南省三門峡市霊宝市にあった。
歴史
[編集]はじめ胡県(こけん)といい、建元年間(前140年 - 前135年)に湖県と改称された。周の天子の祠が2カ所あったという[1]。前漢での管轄先は、組織改編によって渭南郡(前198年まで)・内史(前135年まで)・右内史(前104年まで)・京兆尹(前104年以降)と変遷した。
征和2年(前91年)7月、武帝の太子劉拠が、無実の罪におとされそうになって都の長安で謀反した[2](巫蠱の禍)。失敗して逃げた太子は湖県の泉鳩里で屨売りにかくまわれたが、発覚して自殺した[3]。このとき太子の子もみな殺された[4]。後、太子にもともと罪がなかったことを知った武帝は、湖県に「帰来望思之台」をつくった[5]。当時乳飲み子でだった太子の孫はかくまわれて生きのび、赦され、長じて即位して宣帝となった[6]。本始元年(前73年)6月、宣帝は祖父の劉拠に戾太子と諡号を付け、湖県にある墓に奉邑200家を置き、湖県の閿郷と邪里聚を戻園とした[7]。8年後の元康元年(前65年)5月、戻園の奉邑を300家にした[8]。
新の天鳳2年(15年)4月、郡の再編成で京兆尹はなくなり、湖県は翊尉郡に属することになった[9]。
後漢では弘農郡の下に移され[10]、西晋にも続いた[11]。
五胡十六国時代の始光3年(426年)に北魏により湖城県と改称された。
脚注
[編集]- ^ 『漢書』地理志第8上、京兆尹。ちくま学芸文庫『漢書』3、277頁。
- ^ 『漢書』武帝紀第6、武五氏伝第33。ちくま学芸文庫『漢書』1の198頁、5の533頁。
- ^ 『漢書』武五氏伝第33。ちくま学芸文庫『漢書』5、535-536頁。
- ^ 『漢書』武五氏伝第33。ちくま学芸文庫『漢書』5、536-537頁。
- ^ 『漢書』武五氏伝第33。ちくま学芸文庫『漢書』5、536頁。
- ^ 『漢書』宣帝紀第8、武五氏伝第33。ちくま学芸文庫『漢書』1の233-234頁、5の537頁。
- ^ 事実については『漢書』武五氏伝第33、ちくま学芸文庫『漢書』5の537頁。年月は宣帝紀第8、ちくま学芸文庫『漢書』5の237頁による。
- ^ 事実については『漢書』武五氏伝第33、ちくま学芸文庫『漢書』5の537-538頁。年月は宣帝紀第8、ちくま学芸文庫『漢書1の247頁による。
- ^ 『漢書』王莽伝第69中、天鳳2年4月条。ちくま学芸文庫『漢書』391頁。翊尉郡に属したことは、『漢書』顔師古注に引く『三輔黄図』による。今伝わる『三輔黄図』巻之一、三輔治所。『三輔黄図校証』5頁。『三輔黄図校釈』13頁。にも同文がある。
- ^ 『後漢書』志第19郡国1、弘農郡。
- ^ 『晋書』志第4地理上、司州、弘農郡。