韋国清
韋 国清 | |
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上将韋国清 | |
生誕 |
1913年9月2日 広西省 東蘭県 |
死没 | 1989年6月14日 |
所属組織 | 中国人民解放軍陸軍 |
軍歴 | 1931 - |
最終階級 | 上将 |
指揮 |
華東野戦軍第2縦隊司令員 蘇北兵団司令員 駐ベトナム軍事顧問団団長 総政治部主任 |
韋国清 | |
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職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 韋國清 |
簡体字: | 韦国清 |
和名表記: | い こくせい |
韋 国清(い こくせい; チワン語:Veiz Gozcing、1913年9月2日 - 1989年6月14日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中国人民解放軍総政治部主任、中国共産党中央政治局委員などを務めた。最終階級は上将。チワン族出身。
経歴
1929年、中国共産主義青年団に加入し、同年夏に農民赤衛軍に加わり、12月に百色起義に参加[1]。紅軍第7軍に編入[1]。1931年、中国共産党に入党。1931年7月、転戦しながら北上して中央革命根拠地に到達し、中国工農紅軍第7軍排(小隊)長、連(中隊)長を歴任[1]。1932年、瑞金中央軍事政治学校に入学[1]。卒業後も同校に留まり、連長や軍事教員を務めた[1]。1933年10月、特科学校工兵営政治委員[1]。第3次から第5次までの反囲剿作戦に参加[1]。1934年10月、軍事委員会幹部団第4営(特科営)営長に任命され、長征に参加[1][2]。中央紅軍と紅軍第4方面軍が合流すると、紅軍大学特科団代理団長[3]。1935年10月、紅軍学校軍事営(営長:陳士榘)政治委員[4]。1936年11月、
日中戦争時、八路軍総部随営学校校長、中国人民抗日軍政大学第一分校訓練部部長、副校長、山東縦隊隴海南進支隊政治委員、新四軍第3師第9旅政治委員、旅長、第4師副師長を歴任。
国共内戦時、華東野戦軍第2縦隊司令員兼政治委員、蘇北兵団司令員、第3野戦軍第10兵団政治委員。
中華人民共和国建国後は、駐ベトナム軍事顧問団団長、広西省省長、公安軍副司令員、中共広西壮族自治区委員会第一書記、自治区人民委員会主席、自治区政治協商会議主席、広西軍区第一政治委員、中共中央中南局第二書記、中共広東省委員会第一書記、広州軍区第一政治委員、中国人民解放軍総政治部主任、中国共産党中央軍事委員会副秘書長を歴任。1955年、上将の階級を授与。
第1回、第2回[5]、第3回国防委員会委員[6]、第1回全人大常務委員、第4回[7]、第5回[8]、第6回[9]、第7回全人大常務委員会副委員長[10]、第4回、第5回全国政協副主席、中国共産党第8回候補中央委員[11]、中央委員[12]、第9回中央委員[13]、第10回[14]、第11回[15]、第12回中央政治局委員[16]。
1989年6月14日、死去。
脚注
- ^ a b c d e f g h 王 2000, p. 61.
- ^ 袁偉 2001, p. 381.
- ^ 王 2000, p. 62.
- ^ 袁偉 2001, p. 388.
- ^ 中華人民共和国主席令(二届第3号)
- ^ 中華人民共和国主席令(三届第3号)
- ^ 第四届全国人民代表大会第一次会議簡況
- ^ 第五届全国人民代表大会第一次会議簡況
- ^ 中華人民共和国全国人民代表大会公告(六届一次第2号)
- ^ 中華人民共和国全国人民代表大会公告(七届一次第2号)
- ^ 中国共産党第八届中央委員会委員和候補委員名単
- ^ 中国共産党八届十一中全会簡介
- ^ 中国共産党第九届中央委員会委員和候補委員名単
- ^ 中国共産党第十届中央委员会第一次全体会議公報
- ^ 中国共産党第十一届中央委員会第一次全体会議新聞公報
- ^ 第十二届中央委員会第一次全体会議公報(第一号)
参考
- 袁偉,張卓 主編 (2001). 中国軍校発展史. 国防大学出版社. ISBN 7-5626-1089-4
- 王健英 (2000). 中国紅軍人物志. 広東人民出版社. ISBN 7-218-03199-4
外部リンク
- 開国上将韋国清(簡体字)
中国人民解放軍
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