コンテンツにスキップ

ベアトリス・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Cewbot (会話 | 投稿記録) による 2021年6月13日 (日) 10:07個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (ニコライ2世 (ロシア皇帝)) - log)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ベアトリス
Beatrice
イギリス王女
1907年

称号 ガリエラ公爵夫人
出生 (1884-04-20) 1884年4月20日
イギリスの旗 イギリスケント
死去 (1966-07-13) 1966年7月13日(82歳没)
スペインの旗 スペインサンルーカル・デ・バラメーダ
配偶者 アルフォンソ・デ・オルレアンス
子女 アルバロ
アルフォンソ
アタウルフォ
家名 ザクセン=コーブルク=ゴータ家
父親 エディンバラ公アルフレッド
母親 マリア・アレクサンドロヴナ
テンプレートを表示

ベアトリス・オブ・エディンバラ・アンド・サクス=コバーグ=ゴータ(Beatrice Leopoldine Victoria of Edinburgh and Saxe-Coburg-Gotha, 1884年4月20日 - 1966年7月13日)は、スペインの王族であるガリエラ公アルフォンソの妻。スペイン語名ではベアトリス・デ・サホニア=コブルゴ=ゴータ(Beatriz de Sajonia-Coburgo-Gotha)。

略歴

エディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王の次男。のちのザクセン=コーブルク=ゴータ公)とその妃であるロシア皇女マリアの四女として、ケント州で生まれた。姉にルーマニア王妃マリア、ロシア大公妃ヴィクトリア・メリタらがいる。

1902年、ベアトリスとロシア大公ミハイルニコライ2世の弟)とのロマンスが持ち上がった。しかし、ロシア正教会の教会法はいとこ同士の結婚を認めていないため、この結婚話は立ち消えた。のち、ベアトリスはスペイン王アルフォンソ13世と結婚するという噂が流れた。この噂は、アルフォンソが彼女の従姉ヴィクトリア・ユージェニーと1906年に結婚したため、デマだと証明された。この結婚式に出席したベアトリスは、スペイン王の従弟、第5代ガリエラ公アルフォンソと出会った。

1909年7月、ベアトリスはアルフォンソとコーブルクで、カトリックルター派のそれぞれの結婚式を挙げた。2人はコーブルクで暮らした後、3年後にスペインへ移った。

アルフォンソ13世の結婚生活はうまくいっておらず、彼は多くの女性たちと親密にし、何人もの庶子を生ませていた。ベアトリスも王の愛人の一人ではないかと噂された。彼らは親密な友人同士だったが、息苦しい儀礼だらけのスペイン王宮では、その親密ぶりを隠すことが困難だった。

王太后マリア・クリスティーナは、イギリス王族であるベアトリスとの情事の噂に大変憤り、サン・セバスティアンでベアトリスと面会し、スペインから出国するよう説得した。彼女はこれを拒み、問題をこれ以上こじれさせたくない王は、彼女を亡命させるしか選択の余地はなかった。

ガリエラ公一家はイギリスへ行き、3人の息子たちをウィンチェスター校パブリック・スクール)で教育した。スペイン王室が柔和に転じると、一家はスペインへ帰国してサンルーカル・デ・バラメーダカディス県)の所領にある住まいに移った。1930年代は、スペイン王制の崩壊、それに続く内戦で一家の財産の多くを失うなど、受難の時代となった。1931年にスペイン第二共和政が樹立したのち、アルフォンソ国王一家はイタリアへ亡命した。スペインに残っていたガリエラ公一家は、激化する内戦で所領を失い、次男アルフォンソは共産党との戦闘で殺害された。

ベアトリスは、唯一残ったサンルーカル・デ・バラメーダの自宅で亡くなった。三男アタウルフォは独身で1974年に亡くなったため、長男アルバロの子孫のみが現在に続いている。

子女

  • アルバロ(1910年 - 1997年) - スペイン王子、第6代ガリエラ公。
  • アルフォンソ(1912年 - 1936年)
  • アタウルフォ(1913年 - 1974年)