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ヤン・タルノフスキ

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ヤン・タルノフスキ
Jan Tarnowski
タルノフスキ家英語版

出生 1488年
ヴィエヴュルカ英語版
死去 1561年5月15日
ヴィエヴュルカ
配偶者 バルバラ・テンチニスカ
  ゾフィア・シドウォヴィエツカ
子女 ヤン・アレクサンデル・タルノフスキ
ヤン・アモル・タルノフスキ
ゾフィア・タルノフスカ
ヤン・クシシュトフ・タルノフスキ
父親 ヤン・アモル・タルノフスキ
母親 バルバラ・ザヴィシャ・ルジュノヴァ
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紋章

ヤン・アモル・タルノフスキポーランド語:Jan Amor Tarnowski, 1488年 - 1561年5月15日)は、ポーランドの貴族で、1527年より王冠領大ヘトマンを務めた。タルノーポリ(テルノーピリ)の建設者でもある。

生涯

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名門貴族の生まれで、父のヤン・アモル・タルノフスキポーランド語版は、クラクフ県英語版の知事であった。長じてタルヌフヴィエヴュルカポーランド語版ロジュヌフポーランド語版プジェヴォルスクポーランド語版スタレ・ショウォ英語版の領主となり、1518年9月1日より聖墳墓騎士団英語版騎士、1527年4月2日よりルーシ県知事、1535年10月10日よりクラクフ県知事、1536年3月15日よりクラクフ城代をそれぞれ務めた。またサンドミェシュ英語版ストルィイポーランド語版ズィダチョフポーランド語版ドリナポーランド語版サンデチュオランダ語版フミェルフポーランド語版ルバチュフポーランド語版およびホロドウォポーランド語版スタロスタ英語版でもあった。

1521年、彼は北アフリカにおけるオスマン・ハプスブルク戦争英語版に参加した。また大改革を経た後のポーランド軍を率いた最初のヘトマンの一人であり、数多くの戦いでポーランド軍に勝利をもたらした。ポーランド王国の大元帥に相当する王冠領大ヘトマンには1527年に就任した。モスクワ・リトアニア戦争英語版の最中、1531年にオベルティンの戦いポーランド語版においてモルダヴィア軍を、1535年にはスタロドゥーブ包囲戦ポーランド語版においてモスクワ軍を打ち破った功績はその好例である。ただし、これらの勝利はタルノフスキの戦場の現場の力量のみによって得られたものではない。彼の軍事的才能は、国家予算によって賄われる騎馬砲兵、野戦病院、参謀本部、野戦工兵などの導入などの広い面で存分に発揮された。


関連項目

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