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荒尾宣就

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荒尾 宣就
時代 江戸時代
生誕 元和6年(1620年
死没 天和3年5月16日1683年6月10日
改名 次郎作(幼名)→宣就
別名 主計、志摩(通称)、恕心(号)
戒名 満正院殿別峯恕心居士
墓所 鳥取県倉吉市長谷寺
主君 池田光仲
因幡鳥取藩家老
氏族 荒尾氏
父母 父:荒尾嵩就
兄弟 宣就和田三信秀就重就
正室:池田長幸の娘
養子:秀就
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荒尾 宣就(あらお のぶなり)は、江戸時代前期の因幡鳥取藩家老。倉吉荒尾家2代。家中に質素倹約を奨励し、号の恕心と通称の志摩から「恕心志摩」と称された。[1]

生涯

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元和6年(1620年)、池田家老・荒尾嵩就の長男として生まれる。家老として藩主・池田光仲に仕えた。

寛永6年(1639年)、備中松山藩主・池田長幸の娘と結婚する。正保元年(1645年)、合力米1500俵を賜る。慶安3年(1650年)、鳥取東照宮建立の際に、荒尾成直和田三信らと共に灯籠を奉納する。寛文2年(1662年)、父嵩就の隠居により家督相続し、米子8000石の領主となり、弟の重就を養嗣子と定める。寛文7年(1667年)、幕府より、藩主・光仲が江戸芝金杉堀の普請の課役を命じられ、監督を務める。延宝3年(1675年)11月、江戸城将軍徳川家綱に拝謁する。

天和3年(1683年)5月16日死去、享年64。家督は秀就が相続した。

脚注

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  1. ^ 『倉吉町誌』

参考文献

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  • 『倉吉町誌』
  • 『新修鳥取市史』

関連項目

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