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楊文度

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楊 文度[1](よう ぶんど / よう ぶんたく、生年不詳 - 477年)は、中国南北朝時代仇池氐首長。武都王。

経歴

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楊伯宜(楊盛の弟の楊寿の子)の子として生まれた。武都王楊僧嗣の従弟にあたる。楊僧嗣が死去すると、文度は自ら武都王として立った[2]

472年南朝宋により龍驤将軍・略陽郡太守に任じられ、武都王に封じられた。さらに寧朔将軍に改められた[3]

473年、武都の氐族北魏の仇池を攻撃し、長孫観に撃退された[4]

476年、文度は寧朔将軍のまま都督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史の官を加えられた[5]

477年、文度は平羌校尉・北秦州刺史のまま持節・都督北秦雍二州諸軍事・征西将軍に進んだ[6]

同年、文度は弟の楊文弘に命じて北魏の仇池を攻撃させ、陥落させた[7]。北魏の征西将軍皮歓喜・鎮西将軍梁醜奴・平西将軍楊霊珍らが4万の兵を率いて楊文弘を攻撃し[8]、楊文弘は仇池城を棄てて南に逃れた[9]。12月、皮歓喜が葭蘆城を攻め落とすと、文度は斬られ、その首級は平城に送られた[10]

脚注

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  1. ^ 宋書』や『南斉書』では、文度を「文慶」と書き誤っている箇所が見られる。
  2. ^ 『宋書』氐胡伝では、楊僧嗣の死と文度の自立は太宗泰始3年(467年)に続く記事として現れる。『資治通鑑』巻133では元徽元年(473年)冬10月の記事に見える。ただし『資治通鑑』の説を採ると、以下の『宋書』氐胡伝の泰豫元年(472年)記事とは矛盾が生じる。
  3. ^ 『宋書』氐胡伝泰豫元年
  4. ^ 魏書』高祖紀延興3年冬10月の条
  5. ^ 『宋書』氐胡伝による。文度がこの年に北秦州刺史となったことは、同書後廃帝紀元徽4年夏5月の条にも見える。
  6. ^ 『宋書』氐胡伝による。文度がこの年に征西将軍に進んだことは、同書順帝紀昇明元年閏月辛丑の条にも見えるが、これは文度の死後のことになる。
  7. ^ 『魏書』高祖紀太和元年冬10月の条
  8. ^ 『魏書』高祖紀太和元年11月癸未の条
  9. ^ 『魏書』皮喜伝
  10. ^ 『魏書』高祖紀太和元年12月壬寅の条および同書皮喜伝