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エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルク

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エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルク
Engelbert-Maria von Arenber
第9代アーレンベルク公
第15代アールスコート
在位 1875年 - 1949年

出生 (1872-08-01) 1872年8月1日
ザルツブルク郊外ビュルグルシュタインドイツ語版アーレンベルク城ドイツ語版
死去 (1949-01-15) 1949年1月15日(76歳没)
ローザンヌ
配偶者 エドウィッジ・ド・リーニュ
子女 エンゲルベルト・カール
エーリク
リーディア
家名 アーレンベルク家
父親 アーレンベルク公エンゲルベルト・アウグスト
母親 エレオノール・フォン・アーレンベルク
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妻のエドウィッジ
朝餉の間で朝食を摂る公爵夫妻、以上3枚の写真は1906年にノルトキルヒェン城を撮影したゲオルク・ローテ(Georg Rothe)による

エンゲルベルト・マリア・フォン・アーレンベルクEngelbert-Maria von Arenberg, 1872年8月10日 - 1949年1月15日)は、ドイツベルギー系の大貴族、シュタンデスヘル。第9代アーレンベルク公爵。第15代アールスコート公爵、第4代メッペン公爵、第4代レックリングハウゼン侯。

生涯

アーレンベルク公エンゲルベルト・アウグストとその妻のアーレンベルク公女エレオノールの間の第3子、長男としてザルツブルク郊外ビュルグルシュタインドイツ語版アーレンベルク城(アランベール城)ドイツ語版で誕生。正式な洗礼名はフランス語でアンジェルベール・プロスペル・エルンスト・マリー・ジョゼフ・ジュール・バルタザール・ブノワ・アントワーヌ・エレオノール・ロラン(Engelbert Prosper Ernst Marie Joseph Jules Balthasar Benoit Antoine Eleonore Laurent)。一族の所有するブリュッセル市街のエグモント宮殿、ルーヴェン郊外ヘヴェルレー英語版アーレンベルク城(アランベール城)ドイツ語版エノー州アンギャン英語版アンギャン城英語版を行き来しながら育った。

プロイセン王国軍陸軍士官に任官し、1889年から1893年までミュンスター駐屯の第4胸甲騎兵連隊ドイツ語版に所属、1893年から1896年までベルリン駐屯の近衛胸甲騎兵連隊ドイツ語版に所属。第一次世界大戦中は陸軍第7視察部所属の陸軍少将を務めた。

エンゲルベルト・マリアは3歳で父を亡くすと同時に公爵家の莫大な資産・所領を相続しており、所領の中心はエムスラントドイツ語版(現在のノルトライン=ヴェストファーレン州)の広域にわたる森林地であった。1903年にはミュンスターラントドイツ語版ノルトキルヒェン城ドイツ語版を購入した。1909年から1912年まで、リューディンクハウゼンドイツ語版ヴァーレンドルフベックム選挙区選出、中央党所属であるドイツ帝国議会議員を務めた。1903年から1918年までプロイセン貴族院の世襲議員席を占め、1917年から1919年年までヴェストファーレン州ドイツ語版議会議員も務めた。あるジャーナリストは1913年、エンゲルベルト・マリアについて「ヴェストファーレン州では最も裕福な大地主であり、その富の大きさは突出している」と書いている。エンゲルベルト・マリアは6300万マルクと見積もられた資産を贅沢に消費した。第1次世界大戦後はドイツを出国してミラノで生活した。1949年に病に倒れ、療養先のローザンヌで死んだ。

エンゲルベルト・マリアは先祖伝来の所領や工場、鉱山などを経営・管理し、1928年から1932年の4年間にアーレンベルク=メッペン社ドイツ語版、アーレンベルク=ノルトキルヒェン社、アーレンベルク=レックリングハウゼン社、アーレンベルク=シュライデン社、アーレンベルク=デュッセルドルフ社の5つの有限会社を設立した。これらの企業体の社員は最初、エンゲルベルト・マリアの3人の子供だけで構成されていた。彼はまた、同時期に数多くの社会福祉施設を創設した。1919年にメッペンドイツ語版の、1927年にレックリングハウゼンの名誉市民となった。

子女

1897年10月14日にブリュッセルで、リーニュ公女エドウィッジ(1877年 - 1938年)[1]と結婚した。公爵夫妻は3人の子をもうけたが、子供たちにはいずれも実子がなかった。

  • エンゲルベルト・カール(アンジェルベール・シャルル)・マリー・アンリ・アントワーヌ・フランソワ・プロスペル・エルネスト・ガスパール(1899年 - 1974年) - 第10代アーレンベルク公爵、1939年ヴァレリー・ツー・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン[2]と結婚(1953年死別)、1955年マティルド・カレと再婚
  • エーリク・シャルル・オーギュスト・エドウィッジ・アンジェルベール・アントワーヌ・バルタザール(1901年 - 1992年) - 第11代アーレンベルク公爵、1949年マリー=テレーズ・ド・ラ・ポエズ・ダランブル[3]と結婚
  • リーディア・エドウィッジ・エレオノール・シャルロット・マリー・メルシオール・アントワネット・ジョゼフィーヌ(1905年 - 1977年) - 1928年ピストイア公フィリベルトと結婚

1992年の次男エーリクの死後、エンゲルベルト・マリアの姉ソフィー(1871年 - 1961年)とその夫で従兄のジャン=バティスト(1850年 - 1914年)の孫ジャン=エンゲルベルトオランダ語版(1921年 - 2011年)[4]が家督を継いで第12代アーレンベルク公爵となった。翌1993年、ジャン=エンゲルベルトのアーレンベルク公爵位は、ベルギー貴族の爵位として認められた。

脚注

  1. ^ リーニュ公ウジェーヌ1世の三男シャルル=ジョゼフ=ウジェーヌ公子(1837年 - 1914年)の長女。弟アンリ=フロラン=ラモラル・ド・リーニュラ・トレモイユ家の女子相続人との結婚を通じて、エルサレム王位の請求権を継承したと見なされている。
  2. ^ シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公アルベルトの非嫡出子。1938年に弁護士エルンスト・ヨハン・ヴァーグナーと離婚後、エンゲルベルト・カールと再婚。1953年自殺。
  3. ^ モンテ・カッシーノの戦い(1944年)で戦死したフランス陸軍軍人アンリ・ド・ベルザンス侯爵の未亡人で、前夫との間の2人の子レティティア英語版とロドリーグはエーリクの養子となった。レティティアはトスカーナ大公家家長ジギスムントの母で、ウルグアイで自動車・バイクの輸入会社を経営している。
  4. ^ ジャン=エンゲルベルトはバイエルン王太子ループレヒトの末娘ゾフィー・フォン・バイエルン(1935年 - )と結婚した。

参考文献

  • Die Arenberger im Emsland. Sögel 2003.
  • Franz-Josef Heyen, Hans Joachim Behr (Hrsg.): Die Arenberger. Geschichte einer europäischen Dynastie. Band 2: Die Arenberger in Westfalen und im Emsland. Koblenz 1990.
  • Arenberg-Meppen GmbH (Hrsg.): Arenberg 2003. Aspekte aus 200 Jahren Arenberg-Meppen und 100 Jahren Arenberg-Nordkirchen. Meppen 2003.
  • Bernt Engelmann: Das Reich zerfiel, die Reichen blieben. Hamburg 1972, S. 118, 277. (Daten zum Vermögen nach Rudolf Martin: Jahrbuch des Vermögens und Einkommens der Millionäre im Königreich Preußen, Berlin 1913)

外部リンク

先代
エンゲルベルト・アウグスト
第9代アーレンベルク公
第15代アールスコート
1875年 - 1949年
次代
エンゲルベルト・カール