堯暄
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堯 暄(ぎょう けん、生年不詳 - 495年)は、北魏の政治家・軍人。もとの名は鍾葵。字は辟邪。本貫は上党郡長子県。
経歴
[編集]堯僧頼の孫。容貌が美しく、千人軍将・東宮吏となった。文成帝にその実直を買われて、中散に抜擢された。斉州に派遣され、平原鎮将と長史の収奪と横暴を調査した。太尉中給事・兼北部曹事に任じられ、後に南部曹事に転じた。太和年間、南部尚書となった。486年(太和10年)、三長制が立てられると、堯暄は東道十三州使となり、戸籍の整備にあたった。488年(太和12年)、南朝斉の将軍の陳顕達が侵攻してくると、堯暄は使持節・仮中護軍・都督南征諸軍事となり、侵攻に対処した。堯暄の軍が許昌に到着すると、陳顕達が撤退したため、堯暄は軍を返した。平陽伯の爵位を受けた。百官が改置されると、太僕卿に任じられた。493年(太和17年)、孝文帝の南征のとき、安南将軍の位を加えられた。大司農卿に転じた。495年(太和19年)、平城で死去した。安北将軍・相州刺史の位を追贈された。