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酒井忠中

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酒井 忠中
時代 江戸時代
生誕 文政4年2月28日1821年3月31日
死没 弘化2年8月11日1845年9月12日
別名 悦之助(通称
戒名 貴賢院殿止斎公子
墓所 山形県鶴岡市
幕府 江戸幕府
庄内藩
氏族 酒井氏
父母 父:酒井忠器、母:亀代姫
兄弟 忠発忠中増山正修市橋長和
米津政易米津政明忠寛
娘(内藤信親正室)、鏈(松平勝善正室)、
娘(五島盛徳正室)、娘(松平忠精正室)、
猶(松平勝善継室)、
松子(松平輝承正室・黒田直侯長女)
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酒井 忠中(さかい ただなか)は、出羽庄内藩8代藩主・酒井忠器の三男。

人物

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幼少の頃から、絵画を好み学問と武芸に秀でる、文武両道であったといわれている。

弘化元年(1844年)頃、藩政改革派の庄内藩家老酒井奥之助酒井右京、中老松平舎人らは、分家の旗本酒井忠信を後見役にして忠中を擁立し、藩主酒井忠発を廃そうと企てるが、忠中が弘化2年(1845年)死去してしまったため、改革派のもくろみは挫折することとなった。

鶴岡市内にある墓碑には、「貴賢院殿止斎公子墓」と銘がある。

出典・参考文献

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  • 「庄内人名辞典」