高木道之助

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高木 道之助(たかぎ みちのすけ)は、江戸時代長崎の地役人[1]長崎代官高木家の三男で、別名忠大。屋敷は、長崎市の桜馬場にあった。

略歴[編集]

江戸時代後期の長崎では、文化5年(1808年)のフェートン号事件を契機に、警備体制の見直しが行われ、町年寄薬師寺久左衛門が砲術家として加増され、鉄砲方[2]が設けられて警備役に抜擢された。

長崎の町では、地役人らによる「兎狩(うさぎがり)」といわれる軍事演習を年2回行なうようになった。オランダ商館員フィッセルは、80斤(約5キログラム)の自在砲を担いで発射する道之助を目撃し、その体力に感嘆している。

文化6年(1809年)3月、砲術の試し打ちを実施。その際、演習に参加した唐人番[3]の1人が着衣に着火して火傷を負い、蘭方医に診せたが回復せず、破傷風を併発して20日あまりで死亡する事件が起きている[4]。同年、来航したオランダ船に搭乗し、船上での大砲操作を視察する。

文政2年(1819年)9月晦日に長崎鉄砲方(鉄炮方、長崎砲術其外御備向御用取扱)に任命され、別家を立てる。鉄砲方となった道之助は、出島のオランダ人を訪ねて、火器や砲術についての質問を行なった。

文政4年(1821年)、江戸に参府して砲術の上覧を得る[5]

脚注[編集]

  1. ^ 幕府から派遣された役人ではなく、地元の人間を現地採用した役人。長崎では、町政運営や貿易業務のほとんどが地役人により行なわれていた。
  2. ^ 砲術の訓練や、砲台の守備を行なう地役人。
  3. ^ 長崎の唐人屋敷とそこに居住する唐人の監視を任務とする地役人。
  4. ^ 『唐人番日記』。
  5. ^ 梶輝行著「文化文政期の長崎警衛と西洋砲術 - 長崎鉄砲方高木道之助を中心に」『日蘭学会会誌』36巻、1994年。

参考文献[編集]